榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

阿久悠は、なぜ山口百恵の作詞をしなかったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(592)】

【amazon 『不機嫌な作詞家』 カスタマーレビュー 2016年11月21日】 情熱的読書人間のないしょ話(592)

昨日、今日と2日に亘り、庭木の3本目の剪定に挑戦しました。高さが4mほどあるため、不器用な私には大仕事でした。散策中、ドウダンツツジ、イロハモミジ、ハナミズキ、シダレモミジ(ベニシダレ)、ツタの紅葉、イチョウ、ザクロの黄葉を満喫しました。夕方にかけての散策は、夕陽に出会う楽しみがあります。因みに、本日の歩数は10,693でした。

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閑話休題、私にとって、阿久悠は一番好きな作詞家であり、山口百恵は最も心惹かれる歌手です。阿久の詞を百恵がどのように情感を込めて歌うのか興味津々だったのに、遂に実現せずに終わってしまいました。残念無念です。

不機嫌な作詞家――阿久悠日記を読む』(三田完著、文藝春秋)は、阿久が27年間、1日も休まずに綴った日記を通じて、著者が阿久の本質に迫ろうと試みた「研究」書です。「27冊の阿久悠日記――当初は阿久さんの創作の秘密が明らかになるのでは・・・などと考えていたのだが、もちろん、そう簡単に阿久さんの脳味噌が理解できるはずはない。膨大な記述のなかから、ちょっとした阿久さんの視点や事実関係を発見し、そういう発見を積み重ね、他のテキストと照合した上で、やっとおぼろげな推論が浮かぶ――研究とはそういうものだと思う」。

阿久は人々に「悪学」を勧めています。「フュージョン(異種融合)のすすめである。食わず嫌いで行動範囲を狭めることなく、縁あるものならなんでも自分に取り込んでみるべしという『悪学』は、まさに広告から放送台本へ進み、さらに歌、テレビ、イベント、芝居、映画、小説、コラム・・・と休む暇なく進化した『阿久学』そのものである。阿久さんはフェアなひとだった。どんなひとの意見でもきちんと聴き、記憶にとどめた。その場で相手の意見を否定することはせず、『お、いいじゃない』などとうなずくので、私なども拙いアイデアをついつい口にしてしまう。その後、ひとりになってから他人の意見と自分の思いを照合し、最善の結論を熟考する。そういった思考プロセスに日記が役立つこともあっただろう」。

「自身を燃やしながら紡いだ言葉の数々――70年代に高校、大学生活を送り、社会人となった私たちは、阿久さんの言葉の恩恵をシャワーのように浴びた世代である。沢田研二が帽子を飛ばした。山本リンダやピンク・レディーが乱舞した。石川さゆりの塩辛声が切っ先鋭い刃になった」。

それにしても、阿久は、なぜ百恵の作詞をしなかったのでしょうか? 「『スター誕生!』出身者で、阿久さんの書いた詞を唄っていない歌手といえば・・・。どうしても、山口百恵という名前に眼が向く。・・・<ぼくは、レコード大賞を5回受賞している。そのうち3回、『北の宿から』『勝手にしやがれ』『UFO』は、1976年、1977年、1978年の3年連続で、この間、山口百恵の『横須賀ストーリー』『イミテーション・ゴールと』『秋桜(コスモス)』などとぶつかったのである。何回目の時だったか、受賞者の立場でステージに上がり、歌手や作曲家と歓喜の握手を交わしながら、ふと客席を見ると、はやばやと席を立ち、去って行く山口百恵の後姿が目に入った。喪服のように黒いドレスで、彼女の遠ざかる客席通路のあたりがシンと静まりかえり、空気の凍てつく気配さえ伝わって来て、ぼくはステージ上で笑顔をこわばらせたことがある。それは、考えようによっては、受賞者を道化にしてしまうくらいの、強烈な矜持の証明であるようにさえ思えた>。作詞家の一種の欲情が伝わってくる文章である」。

「<後になって、彼女(百恵)の書いたものを読むと、(『スター誕生』の)ある審査員から、ドラマの妹役ならなれると言われたと、それは、ひどく自負心を傷つけたものであるように書かれていたが、ある審査員とぼかすまでもなく、阿久悠である。・・・妹役程度の女優にしかなれないという意味ではなく、妹役なら、何の努力もなく、この場からドラマのスタジオに連れて行っても、すぐに存在を示せるという評だったのである。・・・だが、もしかしたら、妹役にはよほど腹を立てていたのかもしれない。それが理由のすべてだとも思えないが、結局ぼくは、山口百恵の詞は一篇も書くことなく、最も縁遠い歌手となった>」。

「<ぼくはこの2人(森昌子と桜田淳子)の作品を書き、ライバル関係にある山口百恵に対しては、どこか楽観視しているところがあった。まことに不明を恥じるのだが、彼女が、歌のうまい森昌子や、天使も微笑の桜田淳子を超えることなどあるまいと思っていたのである。しかし、『ひと夏の経験』を聴いた時には、その思いを修正しなければならないと実感したのである。・・・一つ間違うとアブナ絵になりそうだが、山口百恵は、アブナ絵と感じさせる哀願の微笑と媚の健気さを拒んで、あくまでも無表情で、凄味さえ漂わせていた。・・・のちに大人たちが逆上し、信仰に近い存在にまで彼女を高い存在に押し上げ、『時代と寝た女』とか『菩薩』と呼ぶようになるのだが、けはいだけならその時にあった。透明な妖気である>。この文章、阿久さんとしては最大級の讃辞と読める」。

阿久の心の内が窺える、阿久ファンには堪らない一冊です。