榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

憧れの名画「秋山図」に50年ぶりで再会したが・・・ ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(632)】

【amazon 『秋山図』 カスタマーレビュー 2016年12月31日】 情熱的読書人間のないしょ話(632)

我が家にはクリスタル・ガラス製のラッコ君がいます。ヘイケボタルの幼虫飼育ヴォランティアを始めて2カ月が経過しましたが、一番大きな個体は体長9mmまで成長しています。散策中に、オナガガモの雄と雌を見かけました。ヤブツバキが真っ赤な花を咲かせています。濃い桃色の花を付けたカンツバキは、サザンカとツバキの交雑種です。マサキの実が裂開して橙赤色の仮種皮に覆われた種子が顔を出しています。因みに、本日の歩数は10,325でした。

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閑話休題、外山滋比古が『乱読のセレンディピティーー思いがけないことを発見するための読書術』(外山滋比古著、扶桑社文庫)の中で、芥川龍之介の短篇『秋山図(しゅうざんず』(芥川龍之介著、岩波書店『芥川龍之介全集<第7巻>』所収)に触れています。

「芥川龍之介の短篇『秋山図』は名画の記憶がテーマである。煙客翁という人が若いとき名画・秋山図を見せられて感動。その後、もう一度、と願ったが拒否される。何十年もして、名画の持ち主が変わって煙客翁はようやく再見を果たす。ところが、眼前の画は記憶の中の画とは比べものにならないほどみじめなものであって、ショックを受けるのである。これは記憶違いではない。記憶と忘却が作品を美化していたのである。時間の経過が必然的にもとのものを忘却する。そしてそのつど、美化させる。やがて、実物よりはるかに美しいものが記憶され、回想の中の姿になる。幻滅は、こういう記憶の変化、忘却による浄化によっておこる。それが記憶の新陳代謝だと考える。記憶はいつまでももとのままであるのではなく、忘却によって、少しずつ変化する。しかも、よりよく変化する。・・・忘却をくぐってきた記憶、つまり、回想はつねに甘美である。甘美でないものは消える」。

外山にここまで書かれては、『秋山図』を読まないで済ますわけにはいきません。

煙客翁は若い時に廃宅同様の張氏の家で見た黄公望の『秋山図』が忘れられず、どうしてももう一度見たいと切望します。「どうしても忘れられないのは、あの眼も覚めるやうな秋山図です。実際大癡(黄公望)の法灯を継いだ煙客翁の身になつて見れば、何を捨ててもあれだけは、手に入れたいと思つたでせう」。「煙客翁が私にこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、既に五十年近い星霜を経過した後だつたのです。・・・ですからあの秋山図も、今は誰の家に蔵されてゐるか、いや、未に亀玉の毀れもないか、それさへ我々にはわかりません。煙客翁は手にとるやうに、秋山図の霊妙を話してから、残念さうにかう云つたものです」。

遂に、念願が叶い、煙客翁が秋山図と再会する日がやってきました。「『五十年前に秋山図を見たのは、荒れ果てた張氏の家でしたが、今日は又かう云ふ富貴の御宅に、再びこの図とめぐり合ひました。真に意外な因縁です』。煙客翁はかう云ひながら、壁上の大癡を仰ぎ見ました。・・・すると果然翁の顔も、見る見る曇つたではありませんか」。

「私はその間に煙客翁と、ひそかに顔を見合せました。『先生、これがあの秋山図ですか?』。私が小声にかう云ふと、煙客翁は頭を振りながら、妙な瞬きを一つしました。『まるで万事が夢のやうです。事によるとあの張家の主人は、狐仙か何かだつたかも知れませんよ』」。

一筋縄ではいかない芥川のことですから、いろいろな読み方ができる作品ですが、私なりに決着を付けるには、秋山図の実物をこの目で見なければと考えています。