歴史小説家・葉室麟の本音が聞ける対談集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(657)】
東京・杉並の高井戸を巡る散歩会に参加しました。吉祥院の狛犬は躍動感があります。第六天神社の狛犬には明和8(1771)年の銘が刻まれています。長泉寺には天保11(1840)年に造られた釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊仏があります。医王寺では赤いツバキがひっそりと咲いています。道の分岐点に設置されている宝暦4(1754)年銘の青面金剛立像は一つの面に三つの眼があります。私が子供の頃、よく遊びに来た井の頭線・高井戸駅脇の神田川は当時は田んぼに沿って流れていました。現在の神田川は護岸工事が施されていますが、体長50cmほどのコイが群れています。因みに、本日の歩数は18,811でした。
閑話休題、『日本人の肖像』(葉室麟・矢部明洋著、講談社)は、歴史小説というフィクションでなく、対談という形で、歴史小説家・葉室麟の本音を聞くことができる興味深い一冊です。
豊臣秀吉の評価は、このように語られています。「秀吉の特質は、戦国の時代相を象徴する『下克上』の典型だった点でしょう。小説で言えば、山田風太郎さんの『妖説太閤記』が実像を一番伝えていると私は思います。コンプレックスの塊の悪人なんですが、それが下克上のエネルギーでもあり、当時の時代感覚だった。・・・山田さんはそんな下克上精神の王者として秀吉を描いた。他の太閤記は現代風の価値観を反映した、明朗な出世物語が多いけれど、山田版は秀吉の負の面を描く。晩年の残虐ぶりも含め、一生を通し筋が通っていて、善悪併せ持つ人間の本性がよく出ている。それが秀吉の魅力であり、人間存在の本質だと訴えます」。この山田・葉室の秀吉論は説得力があり、他の秀吉論を圧倒しています。
西郷隆盛と大久保利通が目指したものの違いが明快に示されています。「明治政府の他のリーダーたちには、欧米諸外国への対抗上、これからの日本は統一国家でなければという共通認識はあったが、廃藩置県の断行にはためらうところがあった。西郷がそこまで踏み切れたのは、天皇が徳で治める国を実現する理想があったからです。そこが大久保利通ら近代化優先を主張する他の新政府幹部と根本的に違う。徳治の古代中国王朝を理想とした革命家でした。その強固な倫理観ゆえ、近代化、西洋化と折り合えないところがあり、後に大久保らとのズレが拡大していきます」。西郷の本質が的確に捉えられています。
憲法、天皇に対する葉室の現実主義的な考え方は、傾聴に値します。「歴史小説を書く立場からすると、天皇は中心課題みたいな部分があります。私は天皇に対する日本国民の歴史的な評価はまだ確定していないと思う。ただ、天皇制に反対する側が九条を支持し、憲法を全部守ろうと訴えるのはおかしい。逆に、保守・右派の側が現在の天皇制を守ろうというのであれば、護憲であるべきです。現実には双方とも矛盾した状態になっている。米軍に守ってもらいながら、日本は何もしていないではないかという意見も聞きますが、それは違うと思います。日本は米国に基地を提供し、思いやり予算(在日米軍駐留経費負担)まで支出している。これ以上負担を増やすなら、日本は米国の51番目の州になってしまう。どんな大義名分があろうと、戦争は国家暴力。日本が戦争をしないのは、憲法や日米安保同盟があるからではないと思います。日本人は先の大戦で戦争は嫌だと身にしみ、懲りたから戦争をしない。主体的な選択です。問題はその思いを今後も持続できるかどうかです」。
「改憲論者の中には現憲法は米国に押し付けられたものだからよくないとする意見がありますが、私は別に押し付けでも構わないという立場です。それを言うなら、大日本帝国憲法は押し付けではないのか。そもそも近代化そのものが欧米から押し付けられた感がある。たとえ押し付けであったとしても、それをどのように理解し、運用して、真に自分たちのものにしていくか。その過程が大事だと思います」。
「現在の国家像はいずれ変容を迫られる。でも、私はそうなる日まで現憲法を守ればいいのではないかと思います。単純に言えば、日本に米軍基地が存在し続けている限り、憲法改正する意味がない。改憲によって日本が戦える国になれば、米国だって敵になる可能性が出てくる。現状を考えれば、日本から米軍基地を全部なくすのは非現実的です。そんな中で憲法の条文だけを書き換えても仕方がないと考えます」。