不世出の名プロデューサー・蔦屋重三郎がお上に抗し、目指したものとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(704)】
ハクモクレンの並木は見応えがあります。モクレンも咲いています。芳香を漂わせるジンチョウゲの白い花は清潔感があります。ハボタンが黄色い花を咲かせています。ユキヤナギの白い花を見詰めていると、吸い込まれそうです。因みに、本日の歩数は10,924でした。
閑話休題、歴史的事実に重きを置いた小説『稀代の本屋 蔦屋重三郎』(増田晶文著、草思社)のおかげで、蔦屋重三郎(1750~1797年)になった気分で、仲間の喜多川歌麿(1753~1806年)、葛飾北斎(1760~1849年)、山東京伝(1761~1816年)、東洲斎写楽(1763~1820年)、十返舎一九(1765~1831年)、曲亭馬琴(1767~1848年)らと会話を交わす楽しみを味わうことができました。
「蔦屋という船は時代の潮流に乗っかりぐいぐい好況の海路を進んでいた。しかも船大将の重三郎は、狂歌師たちにちゃっかりと櫂をあてがい、総出で漕がせている。・・・重三郎はしたたかに動いた。吉原で狂歌師たちを接待するのに余念がない。狂歌の会の後ろ盾にもなった。(大田)南畝を必ず上座に据え崇め奉った。最重要人物を取り込み、狂歌壇を底支えすることで時代の『気分』を演出してみせたのだ」。
「歌麿は早くから己の画業の到達点を見据えていた。いい女を描きたい、女の内に秘めるものまで絵筆でとらえたいと意気込む彼に、(重三郎は)格好の画材を与えることができた。・・・『蔦屋重三郎が見込んだのは喜多川歌麿。あんたを日本一の絵師にしてみせる!』。歌麿との間はいつもこんな按配だ。気骨が折れて仕方がない。されど絵師、戯作者との付き合い、語らいは本屋の大事な柱。あるときは叱咤、またあるときは慰撫して、ものづくりの発想を高みへ押し上げる」。
「蔦屋耕書堂は狂歌熱の去った後、どう切り盛りしていくかの重大な岐路に立っている」。
「黄表紙、狂歌、洒落本、錦絵・・・江戸を席巻する本屋(重三郎)の鼻息は荒い。重三郎の一存で、行事改めという大役はほとんど骨抜きになってしまった。・・・江戸の衆にとって蔦屋は特別な場所。耕書堂の店頭で、鼻からいっぱいに吸った当世の気が五臓六腑に行きわたれば、それだけで世事の最先端をまとうことができた」。
「(馬琴は)武家ながら医者に転じた父の関係で、一時は同じ道を志していたらしい。だが、遊蕩三昧で身を持ち崩し零落。深川あたりで逼塞していたが、戯作で名をあげようと一念発起し、酒樽を手土産に六つ年上の京伝を表敬訪問した――。・・・『ところが、あいつを持てあました京伝は、蔦重さんに厄介を押しつけたってわけか』。・・・彼(馬琴)は想うところを口にした。『蔦重をみて、自分を活かすのにまったく新しいことをはじめる必要はないとわかった』。『じゃ、その策とやらをいってみろ』。『唐土の<水滸伝>や本朝の忠臣蔵から趣向をいただいた読本で傑作をものする。きっと西鶴、秋成ら先人をも追い抜いてみせようぞ』」。
「(重三郎は)歌麿と袂を分かったあと、憂さをはらそうと、つい呑み喰いが過ぎるようになってしまった。・・・ほどなく、廊下をどたどたと走ってきたのは重田幾五郎(一九)。さっきまで、錦絵の色滲みを防いでくれる礬砂を和紙にひいていたから腕まくりをしている。彼は、曲亭馬琴として作物に専念する瑣????と代わるように蔦屋耕書堂に入った」。
「『お待たせしました』。背の高い男がそろり、すり足の優雅な所作であらわれた。彼(写楽)の素性が能楽喜多流のワキ方ということを、すでに重三郎は承知している。・・・『斎藤十郎兵衛と申します』。彼は折り目正しく礼をした。『手慰みの絵を、江戸で知らぬ者がない蔦屋重三郎殿に見そめていただけるとは・・・』。重三郎も居住まいをただした。四十四の数字の入った下絵を取り出す。『この絵は江戸中を探しても類のないもの。ぜひ、蔦屋で仕事をしていただきたい』」。
「重三郎はじっくり役者をみてこいと(写楽に)いった。『私がお伴できるときは参りますし、常に幾五郎という店の者を横にはべらせます』。・・・(写楽が)眼をあげると、重三郎が覗きこむようにして見返してきた。『斎藤さまのお心、どす黒い怨み、妬み、怒り。すべてぶち込んでいただきたい』」。
「この春、幾五郎は十返舎一九と名のって戯作の世界に乗り込んできた」。
「春朗(北斎)は十郎兵衛の絵を手にする。一同、見知ってはいるものの、やはりこの絵の持つ迫力、禍々しいまでの魔力には思わずため息がこぼれる。・・・春朗改め北斎が半畳をいれると馬琴以外のみんなが声をたてて笑った。・・・京伝は窓をしめた。蔦屋の内実を知っているだけに、今度の(写楽の)役者絵が背水の陣というのはよくわかる」。
「(写楽は)絵に没頭した日々を思い出すと身のうちが震えだす。それは感銘や追慕がおこるからではない。やはり懼れゆえのことだ。もう二度と、蔦重のような悪鬼と仕事をしたくはない。・・・荒地で、重三郎という幽鬼が息をひそめ眼だけを光らせて獲物を狙っている。――それがしが描かされたのは、江戸の衆の憧れどころか地獄絵であった。これ以上は深入りしてはいけない。写楽は強く自らにいいきかせていた」。
歌麿、北斎、京伝、写楽、一九、馬琴らを育てた不世出の名プロデユーサー・蔦屋重三郎が、お上の締め付けに抗して、作り上げたかった世界が、作者の筆力によって生き生きと描き出されています。小説として十分に楽しめる一冊ですが、場面場面が映像的なので映画化されても面白い作品になることでしょう。