榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

キリスト教神学を研究する佐藤優は、キリスト教をどう考えているのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(714)】

【amazon 『ゼロからわかるキリスト教』 カスタマーレビュー 2017年4月3日】 情熱的読書人間のないしょ話(714)

図書館での読み聞かせヴォランティアで、『ざしきぼっこ』と『はらぺこヘビくん』を読みました。『はらぺこヘビくん』は子供たちに大受けでした。あちこちで、さまざまな色合いのラッパスイセンが咲き競っています。測ってみたら、直径が11.5cmのものもありました。えらく無愛想なネコたちに出会いました。因みに、本日の歩数は10,981でした。

閑話休題、キリスト教神学を研究する佐藤優の宗教、キリスト教に対する考え方を知りたくて、『ゼロからわかるキリスト教』(佐藤優著、新潮社)を手にしました。

「ところが面倒くさいのは、『マルコによる福音書』というのはね、日本聖書協会の『聖書 新共同訳』を見ると、四角い括弧が付いている箇所があるんですよ。虫眼鏡で見ないと分からないような注がそこについているのだけれども、『後世の挿入とされるが、長い間教会で真正の文書と思われていた部分』と書いてある。要するに、ここは後から挿入した箇所である。だけれども、そこを削除しちゃうと、今までずっと読んで馴染んできた一般の信者が、なんで削除するんだって、気にするといけないから残しているんです。本当は文献学的には、『ここ、オリジナルの<マルコによる福音書>には入っていなかったんですけどね、おなじみのところだから残しときます』って箇所があるわけ。それはどこかというと、復活の場面なんだ。これはまずいわけよ。キリスト教って、イエスが復活することが前提になっているでしょ。十字架にかけられて死んだけれども、死んだあと、死人が復活して、使徒たちのところに現れると、『私はすぐに来る』とかいって天上へ上がって行き、でもすぐに来ないで、そのまま2000年近く再来が遅れている。これ、神学用語で『終末遅延』というんだけれどもね。つまり、キリストがずっと来ないのは遅れているだけで、いつかは来るんだとしているわけ。でも、『マルコによる福音書』では復活がなかったとなると、復活信仰というのはもしかしたら成立しないかもしれないという、もう極めて面倒くさいことになってくる」。復活信仰の欺瞞性が暴かれています。

「イエス・キリストは、自分のことをユダヤ教徒と思っていたことは間違いなくて、新しい宗教をつくったとは全然思っていませんでしたからね。じゃあ、キリスト教をつくったのは誰かというと、パウロですよ。教祖がイエスで、開祖がパウロと言ってもいい。・・・教団でぐんぐん力を伸ばしてきて、結局、彼がユダヤ教とは別のキリスト教という宗教をつくったわけです」。ユダヤ教の改革者だと、イエスは自分を捉えていたのでしょうね。

カール・マルクスの言葉、「宗教は民衆のアヘンである」はよく知られています。「マルクスがしているような宗教批判、宗教が人間をつくったのではなく、人間が宗教をつくったなんていうのは、現代のわれわれが神を語る時の前提です、当たり前の話なんです。しかし、理屈からすると当たり前に見えているようなもの、それから理屈からすると荒唐無稽に見えるようなもの、それらがなぜ力を持ってしまうかを考えるのは、その先の応用問題なんですよね。宗教というものはそう簡単には消えないものなのだから、まず前提をカチッと押さえておかないといけない」。マルクスの言い分に軍配を上げています。

「宗教批判の問題はいまだ解決していなくて、目下のところ宗教批判を一所懸命やっている人がハーバーマス。この人は理性しか信用していない。死後の世界なんて端から信用していないわけです。自分にとって案楽な現実世界がどういうふうにできるかを考えて、死んだらそれでおしまいと思っている。こういう人の知恵、こういう人の存在というのも、なかなか面白いよね」。ユルゲン・ハーバーマスの考え方は、私と一緒です。

本書の肝は、「神の声が聴こえる時」で、イスラム国(IS)に殺された後藤健二について語っている部分です。「われわれの感覚からすれば、後藤さんは無謀なことを想い詰めてやってしまったようにしか見えない。自民党の高村正彦副総裁がいみじくも言ったように、『蛮勇』にしか見えない人が世の中にはたくさんいるだろう。ところが後藤さんからすれば、あの行動は神様の声に動かされてのものだった。僕は同じキリスト教徒で、同じ日本基督教団に所属しているけれども、湯川遥菜さんの問題に関してそういう神様の声は聴こえない。僕には全く聴こえなかった。決して行くべきじゃないと思うし、率直に言って、自己責任をとらなくてはならないと思う。ただ、後藤さんに湯川さんを救けなさいという神の声が聴こえていたっていうことだけは、僕にも分かる。目立ちたいとか、その映像をテレビ会社に売って金儲けをしたいという動機では、あそこまでのリスクを人間は冒せない。これは彼の中で神の声が聴こえていないと出来ない行為だと思う。後藤さんは召命を受けたのだと思っています。召命は理性や遺志などと違って、人間の内部から生じたものではありません。外部から、超越的な声が聴こえるのです。それは圧倒的な経験です。むろん、自由意志を持つ人間はその声を拒否したり抵抗したりもできる。でも信仰を持つ人間にとって、召命に無条件に従うことは義務なのです。この義務は社会的な常識や世間知や人間の理性を超えたものです」。後藤は神の声を聴いて行動したのだという佐藤の見解は、強い説得力を持っています。後藤の行動を論じたものの中で、一番的を射ていると考えます。

知については、こう述べています。「われわれは必ず死ぬからね。われわれが生きてきた意義、それからどういうふうに死と向き合わないといけないのか。考えたくないけど考えないといけないことはたくさんあるわけ。そういうときに知は必ず役に立つ。絶対に知というのは生きる上で役に立つはずなんですよ」。同感です。