裸一貫から、才覚、度胸、努力で財閥を築き上げた大倉喜八郎の生涯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(734)】
ここ数年、ヒバリの写真撮影に失敗し続けてきたのですが、今回は粘りに粘り、遂にカメラに収めることができました。女房も、「冠羽とつぶらな瞳がかわいい!」と、大喜びです。カワラヒワもいます。黒っぽいチューリップ、バラのような朱色のチューリップを見つけました。パンジーも頑張っています。セイヨウカラシナの群落が広がっています。ナノハナ(セイヨウアブラナ)は一本も見当たりません。毎日10,000歩以上歩いているせいか、11カ月でウォーキング・シューズが破れてしまいました。そこで、今日から黒一色の新しい靴に替えたのですが、軽く履き心地がいいので、これまで以上に毎日の歩数が伸びそうです。因みに、本日の歩数は12,129でした。
閑話休題、『怪物商人――大倉喜八郎伝』(江上剛著、PHP文芸文庫)には、裸一貫から大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎の生涯が描かれています。戦後、大倉財閥は解体されましたが、中心的企業だった大倉土木は大成建設として五大建設会社の一角を占めています。
幕末から明治、大正にかけて、己の才覚と度胸と努力だけでのし上がった男の生涯は、「戦争で稼ぐ死の商人」と呼ばれた面は確かにありますが、私たちに爽快感を与えます。
大倉が90歳で死去した時、渋沢栄一はこう語っています。「私たちは趣味も性格も全然相反していたが、それで気が合い一度も喧嘩したことがない。いかにも押し強く、機を見るに実に敏だ。そして何事をなすにも打算が徹底し、算盤に合うと見たら、遮二無二押し切って奮闘するところは見上げたものであった。学問も随分、あらゆるものを漁って片っぱしから読書したもので、仏書でも漢籍でも美術でも何でも一応はかじっているが、しかしどれといってまとまったものをもたない。商人の大倉さんはいかなる大官に対しても畏縮することなく、その押しの強さといったら話以上で・・・」。
その葬儀には、排日運動が燃え盛る中、中国国内で対立している大立者たち――張作霖、張学良、馮玉祥、段祺瑞、蒋介石など――からの弔旗が91本も並びました。「『きな臭い、火薬の臭いがぷんぷんするような弔旗の列ですな』。葬儀に参列していた渋沢が呟いた。『さすがと言うべきでしょう。戦争屋、元鉄砲商人の喜八郎さんにふさわしいではありませんか』。三井財閥の大番頭、鈍翁益田孝が楽しそうな笑みを浮かべた。『くそ度胸と機知で、人の人生の二倍も面白おかしく生きられたのでしょうな。商人としては、まさに怪物でしたな』。渋沢も笑みを浮かべた」。
「喜八郎は。どんな立場の人間であろうと懐に飛び込んで行った。それが、中国における人脈の拡大につながった。喜八郎は、中国の統一に命を懸ける人間たちに、かつて明治維新で戦った維新の志士たちの面影を重ねていたのではないだろうか。大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文、山県有朋、大隈重信――。喜八郎が幕末、明治、そして今日まで生き抜くことができたのは、彼らの懐に解き込んだからだ」。
大倉の活力の原動力は、岩崎弥太郎に対する対抗心だったのでしょう。「土佐藩出身の岩崎弥太郎などは、土佐藩という薩摩長州に次ぐ、維新の立役者の藩出身だというだけで新政府首脳部にがっちりと食い込み、九十九商会などを設立して海外貿易に乗り出した。自分のやるべきことを見つけたというより、新政府の尻馬に乗ってさえいれば、勢いそのままに飛躍していくのだろう。それに引き換え自分は、と喜八郎は庭を見ながら憂鬱そうに呟いた」。
「岩崎はゆるせねぇな、喜八郎は悔しさに唇を噛みしめていた。台湾出兵で喜八郎は多くの損失を被った。岩崎は、その点、そうした苦労をせず、今や政府から払い下げられた輸送船を駆使して、日本沿海を我がもの顔に暴れまわっている。世評では、一夜にして海上の雄になったと言われている。それに比べて俺は政府には食い込んだものの、岩崎のようにうまく立ち回れなかった。悔しさを噛みしめつつ、喜八郎は目の前に広がる不忍池を眺めていた」。
「事業は順調に拡大していた。しかし、満足はしていなかった。それは三菱の岩崎弥太郎への対抗心だった。喜八郎は、大久保との個人的な繋がりで、ここまで事業規模を拡大してきた。大久保が亡きあとは伊藤との絆を深めようと努めてきた。しかしそれらはあくまで個人的な関係から生まれたものだ。一方の三菱の岩崎は、薩長土肥という藩閥に組織的に食いこんでいる。そのため、征台や西南の役においても海上輸送を独占するなど、有利な立場で経営基盤を強固にしていた」。