チンギス・カンは世界征服の野望を抱いてはいなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(894)】
昨晩、我が家のキッチンの曇りガラスに子ニホンヤモリが現れました。キジバトの巣は意外に簡単な構造です。庭の片隅の観賞用トウガラシが小さな白い花を付けています。散策中、カルガモたちが池の一列に並んだ杭の上で休んでいるのを見かけました。因みに、本日の歩数は10,372でした。
閑話休題、『モンゴル帝国誕生――チンギス・カンの都を掘る』(白石典之著、講談社選書メチエ)に、3つのことを教えられました。
第1は、2001年、著者らによって、チンギス・カンの本拠地が特定されたということ。そのアウラガ遺跡発掘によるさまざまな成果が示されているが、中でも、遊牧民の彼らが、農耕も行っていたという指摘には驚かされました。
「モンゴル国中東部のヘンティー県の何も無いような草原の地中に、東京ドーム13個分もの面積をもつ遺跡が埋もれていることがわかり、日本とモンゴル国の考古学者が共同で調査することになった。2001年のことだ。注意深く掘り進めると、建物跡や工房跡などが整然と街並みを形作っていた。遊牧民が都市を営んでいたことも驚きだが、彼らが定着的な建物に暮らしていたことは想定外だった。私たちが発掘した建物跡がチンギス・カンの宮殿だったとわかった時には、全身が震えるほどの感動を覚えた」。
「アウラガ遺跡は当時のモンゴル高原では唯一の街だったといってよい。しかも、チンギスの拠点だったならば、モンゴル帝国の政治の中心、すなわち首都だというよう。世界の歴史教科書には、モンゴル帝国最初の首都はカラコルムだと記されているが、カラコルムに先立ち造られたヘルレン(川沿岸)大オルド(大宮廷)こそが、じつは最初の首都なのだ」。
「アウラガ首都圏(首都アウラガを中心とする領域)には宮殿や季節離宮などの政治の場のほかに、工房、農耕などの生産の場もあり、また、移動生活を送る者と、定着的な者とが雑居していたようすがうかがえる」。
第2は、従来の、チンギス・カンは世界征服の野望に燃える残虐な征服者というイメージを覆し、モンゴルの民の安全と繁栄を願う内政重視のリーダーという新たな人物像を提示していること。
「チンギス・カンといえば世界征服者と考える人も多かろう。強力な騎馬軍団で侵略戦争をおこなって虐殺と略奪を繰り返し、ほぼ一代でユーラシアの東西にまたがる広大なモンゴル帝国を築き、莫大な富を得たとされる。・・・だが、これまで調査をしていて、そうした豪華絢爛な贅沢な痕跡を、一度たりとも見つけたことはない。・・・豪奢とはほど遠い質素倹約で質実剛健な暮らしぶりがみてとれる」。
「チンギスが世界征服の野望を抱いていたとは、到底考えられない。チンギスは常に『モンゴルの民』の安全と繁栄の実現という、内政重視のヴィジョンのもとで行動したことがわかった」。
「親遼派から親金派に転じた時も、高原を統一した時も、そして大規模遠征を実施した時も、彼の根底にあるモンゴルへの想いは変わらなかった。彼の為政者としての視線は、常に高原内へと向いていた。唯一無二の世界征服者よりも、モンゴル遊牧民のリーダーとしてふさわしくありたいという彼のポリシーが、そこに看て取れる気がする」。
第3は、数々の苦境を乗り越え、並み居る強国を征服し、大帝国を築き上げたチンギス・カンの戦略・戦術が具体的に分析されていること。
「チンギスの事績からも、常に『馬・鉄・道』というものに彼の心血が注がれていたことがわかる。彼が『選択と集中』をしたものがそれら3者だったことは明らかだ」。
「チンギスはヴィジョンの実現のため、『騎馬軍団の機動力向上』『鉄資源の安定確保』『高原内生産の活性化』という3つの戦略をたて、遊牧リテラシーに基づく『シフト』『コストダウン』『モバイル』『リスク回避』『ネットワーク』という5つの戦術を駆使した。チンギスの成功の理由は何かと尋ねられたら、確固たるヴィジョン、戦略の的確さ、戦術の巧みさにあったと、私は答えたい」。
チンギス・カンに対するイメージを一新する衝撃的な一冊です。