遺伝人類学の知識更新に役立つ一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1194)】
千葉・野田の飼育施設「こうのとりの里」前に広がる田んぼで、今年放鳥されたコウノトリの雄の若鳥「だいち」を10mの近さから観察することができました。アメリカザリガニを捕らえています。遠くに見えるのは、昨年放鳥された雄の「ヤマト」です。今年放鳥された雌の「きらら」の左側にはダイサギがおり、チュウサギが飛び立ちました。因みに、本日の歩数は10,259でした。
閑話休題、『遺伝人類学入門――チンギス・ハンのDNAは何を語るか』(太田博樹著、ちくま新書)のおかげで、遺伝人類学の知識を更新することができました。
木村資生が提唱した分子進化の中立説の現在の位置づけは、このように記されています。「(中立説の登場により)生物の進化を説明する理論として、自然選択説の考え方は『間違いではないが、かならずしも全ての進化の現象を説明するわけではない』という認識に転換したのです。少なくとも分子レベルにおいては、現在は中立説の方が自然選択説より一般的な考え方となっており、中立説ではなく中立理論として生物学の基礎理論の一つになっています」。
中立理論が分かり易く説明されています。「ダーウィン的進化理論では、突然変異は偶然生まれるけども、変異が生き残るのは何らかの必然だと考えます。中立理論でも、突然変異は偶然生まれる、ここまでは自然選択説と同じなのですが、変異が生き残るのもほとんど全てが偶然だ、と考えます。そして、まれにダーウィンが言ったように自然選択で変異が生き残り、集団内での頻度を増します。つまり必然によって生き残る場合もありますが、今現在ゲノム中に観察されている変異のほとんどは、偶然によって生き残ってきたものだ、という考え方です。論文が発表された1968年当時、生物学では自然選択説が『常識』であったため、ほとんどの生物学者は中立説に強く反発し、批判しました。ところが、1970年代後半から80年代にかけて分子生物学が急速に発達し、タンパク質やDNAのデータが膨大に報告されっ蓄積されていきました。そうしたデータを分析してみると、いかなる生物でもゲノム中の変異のほとんどが生存にとって有利でも不利でもない中立な変異で、それを報告する論文が多数発表されたのです。こうして、少なくとも分子レベルでは現在観察されている変異のほとんどは生存にとって有利でも不利でもない中立な変異であるという考えが『常識』になりました」。しかし、中立理論によってダーウィンの自然選択説が否定されたわけではありません。ゲノム中に存在する変異全体の中では、自然選択説による変異は少数派だということです。
ヒトの集団遺伝学にとって、婚姻システムが無視できない影響を及ぼしているというのが、著者の主張です。婚姻システムが「父系社会の嫁入りか、母系社会の婿入りか」によって、子孫のDNAの多様性に差が出てくるというのです。「父系社会では男性の系統がある土地に住みつき、財産と社会的地位を守り継承していく。家長である男性は一所(ひとところ)に留まるため、(男性の系統で継承される)Y染色体の集団内の遺伝的な多様性はあまり増えない。Y染色体の多様性は遺伝子浮動(遺伝子頻度が偶然によって変動すること)で変動するけれど、新しいタイプが外から入ってくる機会が少ないのでむしろ減っていく。けれども、女性は『嫁入り』という婚姻システムを通じて集団の間を行ったり来たりするため、時間を経ても(女性の系統で継承される)ミトコンドリアDNAの集団内の多様性は維持されていくし、集団間ではつねにシャッフリングされている状態になり均質化する」。
母系社会の婿入りでは、「男性が婚姻後に集団間を移動しているため一つの集団内でのY染色体の遺伝的多様性が増す一方、女性は移動しないのでミトコンドリアDNAの集団内の遺伝的多様性は増えず、むしろ遺伝的浮動の効果により時間とともに遺伝的多様性は減っていく」。
2003年に、クリス・テイラースミスらの研究グループが、「ユーラシア大陸の中央部から東半分の広大な地域に現存するY染色体の頻度分布は、チンギス・ハンのY染色体が広まったことが原因」とする論文を発表しました。チンギス・ハンと同じY染色体の系統が数を増やし、他のY染色体より圧倒的多数の子孫を残したというのです。
「クリス・テイラースミスらは、Y染色体を調べて見えてきたこの現象を『社会選択』と呼びました。自然選択ではなく社会選択。生物学的に有利な遺伝子の存在を仮定するのではなく、社会的に有利な立場に立った系統の特定のゲノム領域が選択的一掃(強い選択圧によって特定の変異が集団中に広まることで、その周辺領域の多様性も低下すること)と同じパターンを示す現象です。この社会選択という概念を導入すると、ヒトに限らず社会性のある生物の場合、社会選択で説明できる現象が他にもありそうです。少なくともヒトやヒトの祖先の進化を考える上で重要な概念になるかもしれません」。チンギス・ハンの一族が社会的に成功したことによって子孫をたくさん残し、モンゴル帝国が支配した広範囲の地域全体にチンギス・ハンの系統と推定されるY染色体が広がったと推測されるのです。著者は、このようにコメントしています。「重要なことは、そのY染色体がチンギス・ハンのものであるかどうかではなく、社会的あるいは文化的要素がゲノムの多様性に影響を及ぼすということを認識することです。生物学的な有利性がゲノムに選択的一層の痕跡を残すのと同じように、社会選択の結果、同じような痕跡がゲノムに残ることが示されてきたわけです」。