本書のおかげで、足利尊氏・直義兄弟、高師直の真実の姿が見えてきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(908)】
昨日、一族郎党が集まった母の91歳の誕生会の一齣を、姪が送ってくれました。姪の二人の息子は、とにもかくにも、やんちゃ盛りです。今日の我が家はキンモクセイの甘い香りに噎せそうです。近所にも、大きなキンモクセイの木があります。この辺り一帯がキンモクセイの芳香にすっぽりと包まれています。
閑話休題、『観応の擾乱――室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(亀田俊和著、中公新書)を読んでよかったことが、3つありました。
第1は、以前、『太平記』を読んだ時に感じた、足利尊氏と直義(ただよし)は実の兄弟でありながら、なぜこんなに争ったのだろうかという疑問に、回答を与えてくれたことです。
「観応の擾乱(かんのうのじょうらん。擾乱=内戦)の原因は、尊氏―師直が行使する恩賞充行や守護職補任から漏れ、不満を抱いた武士たちが三条殿直義に接近しつつあるところに、(尊氏の実子でありながら、尊氏から冷遇され、直義の養子となった)足利直冬の処遇問題が複雑にからんで勃発したことに求めることができる」。
第2は、足利家の執事(後の管領に相当)として辣腕を振るい、『太平記』に書かれた、塩冶高貞の美人妻への横恋慕事件などで悪名高い高師直(こうのもろなお)が婆娑羅(ばさら)大名であると同時に、意外に保守的な面も兼ね備えていたという史実を指摘していることです。
「『太平記』は、四条畷(の戦い)の後に高師直・師泰兄弟の専横がいっそう激しくなったとして、その悪行を列挙している。高師直を日本史上屈指の大悪人であるとする史観は現代なお根強く残存しているが、その史料的根拠はほぼすべて『太平記』である。だが、『太平記』に列挙される師直兄弟の悪行は、ほとんど一次史料で裏づけがとれない。仮に史実であったとしても、豪邸を構えて多数の美女を愛人にしたという武将・政治家としての評価とは無関係な話であった」。
「筆者は高師直を(室町)幕府の基礎を築いた改革派政治家として高く評価するが、所領や守護分国支配のあり方などで旧体制(=鎌倉幕府)のあり方を踏襲した過渡期という側面も看過できないと思う」。
「高師直は新興武士層の代表格のようにみなされてきたが、・・・師直もまた、というより彼こそが東国の伝統的な御家人階層出身の保守的な武士だったのである」。
婆娑羅大名として名高い佐々木道誉が、本書のあちこちに顔を出すのも、私にとっては嬉しいことです。
第3は、観応の擾乱という、あまり目立たない歴史事件に我々の目を向かせてくれたことです。その過程で尊氏と直義の性格や心理が明らかになってきました。
「不運すらも幸運に変えていくのが、足利尊氏という将軍の不思議な魅力である」。
「尊氏は配下の武士をよく観察し、的確な評価を下している。記憶力も優れている」。
「(尊氏は)評価の難しい武将であるが、筆者はやはり不世出の将軍であったと考えている。惜しむべきは、もっと早く政治に意欲を見せていれば、擾乱勃発を防止して幕府の損害も少なく抑えられたかもしれない点だ」。
「(政敵)高師直との抗争が勃発して以来、直義の精神的・肉体的な重圧が相当なものであったことは確かであろう。兄や甥(足利義詮)と望まない戦争を行わざるを得ない状況となり・・・」。
「直義のやる気のなさは、40歳をすぎて授かった実子如意王が夭折したことも大きいが、最大の原因はやはり血を分けた兄である尊氏と戦いたくなかったからであるに違いない。逆に尊氏は、擾乱以前は基本的に消極的であった。彼はもともと後醍醐天皇と戦いたくなかったのだが、直義に強引に引っぱられて幕府を樹立した経緯がある。それもあって、幕府発足後も政務の大半を直義に譲り、介入しない原則を採っていたのである。だが擾乱勃発後の尊氏は、急に積極的になって気力がみなぎっている。特に武蔵野合戦のあたりは、政治家としも武将としても以前とはまるで別人である。これはやはり、嫡子義詮に将軍職を継承させたいとする想いが核心に存在したのであろう。両者の勝敗を分けた最大の原因は、きわめて単純であるが結局は気概の差だったのである」。
著者は、観応の擾乱を、「高師直や足利直義の敗死という多大な犠牲を払いながらも、観応の擾乱という試練を克服したことによって室町幕府は政権担当能力を身につけ、足利尊氏も名実ともに征夷大将軍となった」と位置づけているのです。