榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

チベットで共産中国が行ったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1002)】

【amazon 『チベットの娘』 カスタマーレビュー 2018年1月20日】 情熱的読書人間のないしょ話(1002)

散策中、ロウバイの写真を撮っていたところ、その家の女主が、お持ちになりませんか、いい香りがしますよと、枝を切って持たせてくれました。おかげで、リヴィング・ルームでも香りが楽しめます。別の家では、満開のソシンロウバイが芳香を漂わせています。因みに、本日の歩数は10,227でした。

閑話休題、『チベットの娘――リンチェン・ドルマ・タリンの自伝』(リンチェン・ドルマ・タリン著、三浦順子訳、中公文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、ダライ・ラマと関係の深い、チベットの有力貴族の娘の自伝ですが、チベットについて、とりわけ共産中国との関係について知ることができる貴重な資料でもあります。

「1642年にダライ・ラマ5世が宗教上の指導者とチベット政府の最高指導者を兼ねるようになってから、1950年に共産主義者がチベットを侵略するまでの長い年月、歴代のダライ・ラマは、2つの勅任官組織の助けをかりて政治を行なってきました」。

「(父と兄が暗殺された1年後の1913年に)母は(3歳の)私たち全員をひき連れて、デープン僧院からラサに戻りました。ちょうどダライ・ラマ法王が帰還なさった時で、中国人が駆逐され、チベットの独立が宣言されたことを誰もが祝っている最中でした。残念なのは、祖国のためにあれほどつくした父が、生きてこの喜びに加わることができなかったことです。しかし、ダライ・ラマ法王は父の忠誠心を憶えておいでで、母に対して惜しみのない同情を示されました」。

著者は、チベット女性として初めてインドのダージリンに留学し、帰国後、17歳で25歳年上の大臣と結婚(第三夫人)、20歳でシッキム王子の息子と再婚します。

「1940年代も後半、私たちは中国人民解放軍がチベットに迫りつつあるとの噂を耳にしました。・・・デリーでは、中国との交渉が開始されていましたが、『チベットは中国の一部であることを認めよ』というのが、中国側の主張でしたから、チベット側も一歩も譲るわけにはいきませんでした。・・・1951年5月、これらの高官たちは、(16歳の)法王およびチベット政府になんら諮ることもないまま、無理やり十七条協定に調印させられたのです。国連からも他の国からもなんら援助をえられなかった私たちは、この屈辱的な協定を呑むほかなく、ダライ・ラマ法王は、ヤトゥンに5ヵ月滞在した後にラサに戻られました」。

「当時、ラサには張経武将軍の一行をのぞくと中国人は、ほんの一握りしかいませんでした。けれどもそれから1年もたたないうちに、1万もの人民解放軍(男性も女性もいました)がラサに進駐してきました。・・・中国人がくるまで、チベット人は幸せな民族であり、それなりに快適な生活をおくっていました。チベットは決して富んだ国ではありませんでしたが、衣食は足りていましたし、不作の折にも、政府が備蓄していた穀物を放出してくれるシステムになっていました。・・・チベット人の生活様式にはさまざまな欠点もあったでしょうが、人々は心みちたりてのんきに生きていました」。

1959年3月のラサ決起と同時に、命からがらインドに亡命した著者は、チベット難民の子供たちの教育に心血を注ぎました。

本書によって、信仰心が篤く穏やかなチベットの人たちに、共産中国が行った非道の数々が白日の下に曝されることになったのです。