兼好は、文筆を職能とする文筆家であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1069)】
千葉・松戸の常盤平は、ソメイヨシノの並木が3km続いています。花蜜を求めてヒヨドリがやって来ます。オオムラサキが薄桃色や白い大輪の花を咲かせ始めました。ムスカリが青い花をびっしりと付けています。因みに、本日の歩数は11,750でした。
閑話休題、『増補 <徒然草>の歴史学』(五味文彦著、角川ソフィア文庫)は、『徒然草』と、その著者・兼好法師を知る上で、勉強になる一冊です。
「『徒然草』の著者・兼好法師については、最近、出自を語る『尊卑分脈』所収の系図に見える、卜部兼顕の子、蔵人、兵衛佐であったという記事の信憑性が疑われるようになった」と、小川剛生の説を支持しています。
兼好は、後醍醐天皇の兄で若くして亡くなった後二条天皇の内裏に滝口という官職で奉仕していたのだろうと推考しています。「滝口」というのは、雑役に奉仕する低い身分です。
本書では、「兼好は後二条天皇には蔵人としてではなく、滝口として仕えたこと、それを推挙したのは堀河家ではなく、洞院家であったこと、『徒然草』の執筆事情からみて、兼好は文筆を職能としていた文筆家であったことなど」が明らかにされています。
「兼好が書いた『徒然草』を読んだ人々は、さらに兼好から話を聞こうとしたであろうし、またその文章の才をかい、物を書くように依頼したことが考えられる。『徒然草』や歌集からは、和歌を代作していたことが知られ、『太平記』には、高師直から恋文の執筆を依頼された逸話が見えるが、さらに兼好が草した文章は多かったであろう。後醍醐天皇の周辺に集まった職人たちは『徒然草』の存在を知り、兼好に文章を依頼したことは十分に考えられるところである」。『徒然草』は、兼好が文筆業を行うための見本だったというのです。
個人的には、私の好きな静御前に関する記述に目を惹かれました。『平家物語』に記されている白拍子の起源の話は誤りとして、自説を展開しています。「<多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に、興ある手どもを選びて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。白き水干に。さう巻をささせ、烏帽子を引き入たりければ、男舞とぞいひける。禅師が娘、静といひける、この芸を継ぎけり。これ、白拍子の根元なり>。白拍子舞は、藤原通憲入道(信西)が舞のなかの興ある手から選んで磯の禅師に教えたことに始まり、禅師の娘静が継承したこと・・・が語られている」。
「戦乱で地方に赴くにあたって、その徒然を慰めるために『磯の禅師が第(てい)の舞女』を求めた書状(=藤原忠親の著とされる『貴嶺問答』に載っている)であり、このことから磯の禅師は京における白拍子のセンターのようなものであって、各所に白拍子が派遣されていたものとわかる。有名な源義経と静の馴れ初めはこのセンターを通じてのものなのであろうか。磯の禅師とその芸を継いだ静の動向は『吾妻鏡』にも記されており、わざわざ兼好が多久資の語る話として紹介した内容の信憑性は高い」。