榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

老境にある作家の学生時代の思い出、そして、本たちとの巡り合い・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1086)】

【amazon 『道の向こうの道』 カスタマーレビュー 2018年4月13日】 情熱的読書人間のないしょ話(1086)

ベニバナトキワマンサクの花が咲いています。その若い葉は赤みを帯びていますが、段々緑色に変化していきます。ハナズオウが赤紫色の花を付けています。白い花を付けるハナズオウもあります。桃色の花をまとったライラック(リラ)が芳香を漂わせています。薄桃色の花、薄紫色の花をまとうライラック(リラ)もあります。ヤマモミジが雌花(長い雌蕊が目立つ)と雄花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,790でした。

閑話休題、『道の向こうの道』(森内俊雄著、新潮社)は、老境にある作家が学生時代の思い出を綴ったものです。

著者は、昭和31(1956)年4月、大阪から上京し、早稲田大学第一文学部露文科に入学します。そこで出会った米川正夫ら教授陣、李恢成ら個性豊かな級友たちとの交流が語られていますが、とりわけ、読書との関わりが濃厚に描かれています。

著者より8歳年下の私は、生まれも育ちも、送った学生生活も著者とは異なっているが、読書に関しては、かなり通じ合うものがあるのです。

「米川正夫は、すなわちドストエフスキー全集である。わたしと前後の世代は、すべてこの米川訳でドストエフスキーを読んだ、といっても過言ではない。のちに、小沼文彦の30年の労苦が個人訳全集としてまとまるが、わたしたちの世代では米川正夫だった」。私も米川訳でドストエフスキーに挑戦した口です。

「大学の近くに、『大隈庭園』とは別な広い庭園『甘泉園』があった。敷地には、築山のほかにテニスコートや軟式野球場があった。その庭を歩きながら、彼から原稿を受け取った。彼は島崎藤村の『破戒』について書いていた。それは被差別部落出身の主人公がみずからの素性を告白して、周囲の因習と戦う苦悩がテーマになっている長編小説である。彼は岸本の姓を名乗っていたが、雑誌に住所録を掲載するために文学部事務所の記録にたよったので、李恢成であることは、わたしには分かっていた。彼はおだやかな声で、向き直った。『ぼくは朝鮮人なんだ』。それは春の輝かしい陽光のもとで、歩きながらの、そよ風のような会話だった。わたしはそれに答えた。通じたか、どうか、それはたしかではなかった。『知っているよ。だけれど、われわれは全て、この地上では異邦人同士じゃないか?』。なぜなら、アダムとイヴは楽園追放になった。したがって、その末裔である人間はすべて、さすらう異邦人である。その日、このわたしのきわめて個人的な論理、言葉が思うとおり、彼の耳に届いただろうか」。友に対する著者の言葉が心に沁みます。また、私に被差別部落というものの存在を教えてくれた『破戒』を読んだ時の、衝撃と怒りをまざまざと思い出しました。

「『文章倶楽部』の詩欄で、投稿してはずれのない特選常連がいた。それは、畏敬する、のちの石原吉郎だった。わたしなど、とても及ばない存在だった。少しあと、五味川純平が超ベストセラー『人間の条件』を三一書房から刊行を始めるが、この大河小説の純粋蒸留が、石原吉郎の詩の世界だった。シベリア抑留時代の体験、記憶が凍結して、激しい魂の詩は、うっかり触れると凍傷になりそうな苛烈さを秘めていた」。こういう物言いは、著者の好ましい性格を表しています。私も『人間の条件』の世界にぐいぐいと引きずり込まれたことを懐かしく思い出しました。

「『夜と霧』は衝撃と戦慄の一冊だった。解説と手記をあわせてわずか200ページそこそこの本だったが、1000ページにも匹敵する書物だった。本ではない。『書物』だった。それでいて、内容をくどくど説明の必要はなかった。テーマはわずかな言葉の引用で足りた。『人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである』。この勇気に満ちた言葉を将来、艱難に見舞われたとき、あるいはついの果ての未来において、確実に訪れてくるはずの老残の日々のために、しっかり覚えておこう。わたしは読み終わった『夜と霧』に向かって、深々と頭をさげて、感謝した。そして、それから、恥ずかしくなって、そっとあたりを見回した。・・・わたしは読書運には恵まれていた。『夜と霧』の慰安にみちた叡知によって、その後の生活がようやく切り抜けられていた。本と巡り合うについて、幸運だった。おそらくわたしはそれだけが取り柄の、ほかには何も能が無い学生だった」。『夜と霧』が読み手に与える衝撃の激しさ、深さが伝わってきます。

「3年生になって、李恢成の姿が消えた。田中一生が平然として、分かったふうな表情で、註釈をした。李恢成は北朝鮮籍で、祖国の人たちの解放運動に加わっているのだ、と言った。わたしはしんと沈黙して、田中の顔を見た。情報家の彼は澄ましていた。おかしな男だった。人との付き合いでは、ツヴァイクが描くフーシェのような変わり身の早い男だった。・・・それでも田中一生は、その後もわたしの身辺から、離れなかった。わたしの情緒不安定の性癖とそれをまぎらす飲酒癖から。縁をすっかり切れない弱味があった。そして彼は北海道美唄市の郷里の期待を一身に背負った秀才だった。読書の探索、渉猟振りは端倪すべからざる男だった。その意味では、ひそかに尊敬をしていた。油断ができなかった」。友人を評するのに、ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』に譬えるとは!

「この大学最後の1年は、プルーストの『失われた時を求めて』淀野隆三、井上究一郎ほか数人の共訳、新潮文庫13分冊を読むために費やされたようなものだった。最初の一冊は昭和33年1月20日、最終巻は昭和34年12月25日に刊行されている。1年かけて読み終わったときには、時間に恵まれた学生に分際を感謝した。わたしはフランス文学の森について、考えた。それは魅惑であった。しかし、とにかく読み終わったときは1960年。昭和35年、わたしは早稲田の露文科を卒業して、就職浪人になっていた」。私も『失われた時を求めて』を5年かけて読み通したが、その間中、この作品に魅了され続けた実感が生々しく甦ってきました。

改めて、読書の影響の強さを思い起こさせる一冊です。