殺された男たちは銀の釵で胸を刺され、その枕許には山椿の赤い花びらが・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1088)】
大きな水槽で気持ちよさそうに泳ぐカクレクマノミたち熱帯魚を観察していると、時間の経つのを忘れてしまいます。
閑話休題、『五瓣の椿』(山本周五郎著、新潮文庫)のおかげで、極上の小説を心ゆくまで味わうことができました。
天保5年の江戸、常磐津の師匠・岸沢蝶大夫が深川の料理茶屋で、左乳の下に平打の銀の釵(かんざし)を打ち込まれて死んでいるのが発見されます。そして、なぜか枕許には一片の赤い山椿の花びらが置かれていました。間もなく、いかがわしい婦人科医者・海野得石が浅草の料理茶屋で、同じやり方で殺され、やはり山椿の花びらが置かれていました。日を置かず、札差の道楽息子・香屋清一が芝の宿屋で、中村座の芝居茶屋・枡屋の出方だった佐吉が神田川に浮かぶ屋形船で、同じように殺され、やはり山椿の花びらが残されていたのです。次に狙われたのは、日本橋の袋物問屋の主人・丸梅源次郎でした。
一連の殺人事件を担当する八丁堀の与力・青木千之助が調べを進め、徐々に犯人に迫っていきます。
殺された男たちに共通しているのは、どの男も魅力的な若い女にぞっこん惚れ込んでいたことです。
「男はひからびたような声で笑い、眼にけものめいた色を湛えながら、上下の唇を舐めた。『おりうさんのような人にそれほど思いこまれれば本望だ』。・・・湯にはいったのだろうか、洗い髪をさっと束ねて背に垂らし、浴衣に丹前を重ねた上へ、黒衿を掛けた半纏、紫色の地に絞りで大きく紅葉の飛び模様を染めた、――をひっかけ、口紅はつけず、うす化粧をしていた。蝶大夫は心の中で『うっ』といった。これまでの娘むすめしたつくりと裏返しのような、あだっぽい、むしろ伝法な姿であって、しかもその身ごなしの柔軟さや、羞(はにか)みのために消えたそうな表情のういういしさは、たとえがたいほど嬌(なまめ)かしく、いろめいてみえた」。
「(おみのは)逢うたびにだんだん色っぽくなり、いまにもおちそうなようすをみせるんだが、際どいところでするっと逃げてしまう、するっと――』。得石は手で一種の動作をしてみせた。『あのとおりの縹緻(きりょう)で、金がふんだんにあって、おまけに触れなば落ちんという風情でもちかけられるんだ。これでのぼせあがらなければ男じゃあない、そうだろう」。
「『その娘はお倫といって、年は十七か八だろう』と彼は上唇を舐めた、『いかにも箱入り娘らしくて、縹緻もいいが、軀つきや身ごなし、ものの云いようにこぼれるような、色気と、おっとりと匂うような品があった』」。
「『世間知らずのうぶなお嬢さんにみえるかと思うと、いろごとの手くだを知り尽くした人のようにみえ、またひらりとお嬢さんらしくなってしまう。初めて逢ってからもう百幾十日になるし、こうして二人きりで出会うのも七たびか八たびになるだろう、それでも私にはおよねさんという人がわからない』」。
この一連の事件の背景には、已むに已まれぬ事情があったのです。人が人としてしてはならないことをしたとき、天がそれを罰してくれるというのでしょうか。「お父つぁんは独りで、誰にもうちあけようもない辛いおもいに苦しんでいた、財産もあり、しょうばいは繁昌し、人に羨まれるようなむさし屋の主人が、本当はどんな貧乏な人より貧しく、どんな不仕合わせな人よりも不仕合わせだった』。世間はこんなものなのだろうか、とおしのは思った。幸福でたのしそうで、いかにも満ち足りたようにみえていても、裏へまわると不幸で、貧しくて、泣くに泣けないようなおもいをしている。世間とは、本当はそういうものなのかもしれない。――そうだとすれば、おっ母さんのような人はいっそう赦すことが出来ない。心では救いを求めて泣き叫びたいようなおもいをしながら、それを隠してまじめに世渡りをしている人たち。そういう人たちの汗や涙の上で、自分だけの欲やたのしみに溺れているということは、人殺しをするよりもはるかに赦しがたい悪事だ。『ああ』とおしのは呻いた」。