榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本の文人画には、本当に癒やされる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1166)】

【amazon 『もっと知りたい文人画』 カスタマーレビュー 2018年7月2日】 情熱的読書人間のないしょ話(1166)

アカンサス(ハアザミ)が白い花を咲かせています。スパティフィラムの白い花弁のように見えるのは仏炎苞で、穂状のものが花です。ゴーヤーが黄色い花と実を付けています。ナスが薄紫色の花と実を付けています。ネギが元気に育っています。白神山地を訪れた隣人が、なかなか見ることのできないブナの雌花をくれました。因みに、本日の歩数は10,674でした。

閑話休題、『もっと知りたい文人画――大雅・蕪村と文人画の巨匠たち』(黒田泰三著、東京美術)のおかげで、日本の文人画の全体像を俯瞰することができました。

「文人画は、ひと言でいうと、表現技術よりも制作動機が重要視されるというあまり例のない芸術なのです。いったい何が画家を制作に駆り立てるのか、が問われるのです。文人画のおもしろさは、そこにあります。さらにいえば、絵は拙(下手)でもいいのです。何故なら画家は、絵を描くことを遊戯と捉えるからです。遊戯といっても決して等閑(なおざり)ということではありません。社会の桎梏から自らを解放するための手段としての遊戯心です。いわば真剣な遊戯心。遊戯心があるからこそ見えてくるものがあり、表現できることがあるのです。そして画家は鑑賞者とともにその遊戯心を共有することを楽しむのです」。既存のアカデミズムのマンネリ化を嫌い、自分の間尺に合った自由を希求したアマチュアリズムの芸術だったというのです。

「日本文人画の大成者。天衣無縫にして天真爛漫、自由な色彩感覚で描いた画家」池大雅の「吟便図」は、このように説明されています。「窓を開ければ、はるかなる遠山を見わたすことができます。窓辺に文机をぴったりと寄せ、右ひざを立てて左ひじは机にのせて、ややもたれかかるようなくつろいだ姿勢で、窓の外を眺める文人が描かれます。右手には筆が握られています。詩想が得られれば、ただちに言葉に紡ぐ準備が整っていることをものがたりますが、文人は眺めに心を奪われたまま、しばらくは眺望に自分を遊ばせつづけるみたいです」。こういう風趣ある書斎だったら、滾々とアイディアが湧いてくることでしょう。

「俳諧の心を描いた巨頭。ありふれた日常の中に潜む『過ぎゆく時間』の美しさを描いた画家」与謝蕪村の「宜夏図」は、いかにも涼しげです。「夏の蒸し暑さの中でも、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた別荘は心地よく、時おりそばの湖面を通りくる涼風が部屋の中まで届いているのでしょう。片方の肩を出してくつろいでいる文人の納涼姿がいかにも心地よさそうです。家屋に比べて、人物はかなり大きく描かれていてユーモラスに映りますが、人と家との現実的な関係にこだわらないところに、文人画の自在な楽しみを感じることができます」。

蕪村の「竹溪訪隠図」は、春ののどかさで満たされています。「淡い緑色の下地に、葉一枚一枚を、墨の濃淡と大きさの違いで微妙に描き分け、竹葉のふんわりと茂るさまが、新しい緑色の季節の中で光っているようです。中景の山肌もその緑に誘われてか、新鮮な春色に見えてきます。網代垣にかこまれた家屋の友を訪ねる人物が、水辺の道をゆっくり歩んでいます。どこまでものどかで、どこまでもしずかな春の時間が過ぎてゆきます」。

「解き放たれゆく魂の表現者」浦上玉堂、「陶であれ絵であれ、表現者として楽しみつづけた」木米、「自娯への彷徨」田能村竹田、「大御所ゆえの悲哀」谷文晁の文人画も味わいがあります。

「命を懸けた疾走者の孤独」渡辺華山が、自らが愛した芸妓を描いた「校書図」を弟子に与えていたことは、私には意外でした。襟元と袖口に薄紅色の襦袢を覗かせて、しどけない姿態の女性が描かれています。

崋山の絶筆と伝えられている「黄梁一炊図」は、「冬ざれた景色の中、粗末な茶店でうたたねをしている老人と青年が見えます。中国の故事『邯鄲の枕』をもとに描かれたものです」。人生の栄華は一炊の夢ということが伝わってきます。