榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

教養主義を論じた、読み応えのある対談集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1237)】

【amazon 『教養主義のリハビリテーション』 カスタマーレビュー 2018年9月12日】 情熱的読書人間のないしょ話(1237)

埼玉の東武動物公園を訪れました。ホワイトタイガー(ベンガルトラ白変種)、アムールヒョウ、ミーアキャット、エランドと仲良しのキリン、背中を地面にこすり付けるフタコブラクダ、アフリカゾウ、カピバラ、アビシニアコロブスの親子、マンドリル、グリーンイグアナ、ベニイロフラミンゴ、飼育員と仲のよいモモイロペリカン、オオサイチョウ、シワコブサイチョウに出会うことができました。因みに、本日の歩数は16,593でした。

閑話休題、『教養主義のリハビリテーション』(大澤聡著、筑摩選書)は、大澤聡が鷲田清一、竹内洋、吉見俊哉と「教養主義」を論じた対談集です。

鷲田との対談で興味深いのは、「日常のことばで考える」という一節です。「●大澤=教養主義はスノッブな側面も大きいので。●鷲田=たしかにそういうところはありますね。歌舞伎の『見得』にしびれるというのに近い。●大澤=小林秀雄や柄谷行人の独断的な言い回しはまさに『見得』ですね。●鷲田=大学に入って最初にふれた哲学の『見得』はキェルケゴールの『死に至る病』の冒頭の一節でした。『自己とは関係が関係それ自身に関係するというそのことである』と(笑)。まるで見ず知らずの人にいきなり胸ぐらをぐいと掴まれたような感じでした。・・・ヨーロッパの人が哲学でやろうとしたことを自分たちでやるのであれば、やっぱり僕らがふだん使っている日常語をどこまで解剖して再定義できるかどうかにかかっている」。歌舞伎の見得はいいが、こういう見得は止めてもらいたいものです(笑)。

抜き書きの効用に言及しています。「●鷲田=素朴な意見ですが、本のメモを手で書くことはいちど自分の体のなかに入れるようなかんじですよね。●大澤=福田和也さんもずいぶん前に『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』で、おなじ理由から抜き書きの快楽を強調していました。●鷲田=読んでも通りすぎるだけだけれど、やっぱり書くとちがいますよね」。55年間、抜き書きを続けている私としては、我が意を得たりという感じです。

竹内との対談では、丸山眞男対吉本隆明論が、断然輝きを放っています。「●竹内=丸山眞男も本来は政治にも経済にも興味がなくて、私的な世界を生きていた人なんじゃないかと思う。極端にふりわければ(夏目漱石の『それから』の)代助型の人間。ところが、敗戦をむかえて現実政治にコミットせざるをえなくなった。それはもともとの彼のあり方とは異なる方向です。●大澤=戦後、政治的教養の体現者として登場したと。●竹内=戦前は治安維持法もあったので、政治的教養を実践するにもハードルが高かったわけでしょう。それに対して戦後は、政治的教養を地で行く人もかなり出てくる。『進歩的文化人』というくくりができたことが、そのあらわれですね。●大澤=受け入れる土壌ができてきた。●竹内=そうですね。丸山によって共産党でなくとも反体制であるという言説空間と政治行為のくくりがつくられた。●大澤=1968年の全共闘運動のさなか、東大法学部の教授だった丸山眞男は学生たちの批判の的にされるわけですが、他方で、学生たちの人気を集めていたのは吉本隆明でした。吉本は60年代前半の『丸山眞男論』などにおいて丸山的なものをつよく批判することで前面に出てきた。吉本は丸山のネガとして存在していたといっていい。しかし、裏をかえすと、すでにそれだけ丸山的なものがデフォルトと化していたということだと思うんですよ。●竹内=私の世代だと、正統派知識人はやはり丸山で、あくまで吉本は傍系知識人でした。ところが全共闘世代になると、丸山批判をして吉本を持ちあげるのがインテリの証みたいになりましたね。・・・全共闘世代は『反知性主義』の走りといっていいところがある。●大澤=丸山バッシングは反知性主義の典型的な現象でしょう」。丸山と吉本の位置づけに脱帽です。

吉見との対談では、大学の新たな役割が示唆されています。「●吉見=情報環境のデジタル化が進んだことによって、若い世代を中心に、わざわざ本を読まなくても『ネットで十分』という認識になった。以前であれば百科事典に頼っていたところが、いまやウィキペディアにアクセスすれば、たいていのことはわかってしまう。●大澤=新しいメディアがネーションワイドの情報源を独占するようになりました。ネーションワイドどころか、トランスナショナルな情報までも呑みこんでいく。すると、既存の出版の位置づけや機能は変化していかざるをえませんね。●吉見=出版メディアによる教養知の再生産システムが崩れてきた。●大澤=だとすれば、かつてであれば大学の外部に確保されていた、関心のおもむくまま知識や教養をひろげるという営為を今後はどこが支えることになるのか。吉見さんは、それができるのはいまや大学の内部なんだとおっしゃるわけですね。●吉見=すこし前にマスコミで大きく取りあげられた、文科省の『文系学部廃止』という問題にしても、怒りの声をあげるだけでなく、大学自身が新たな時代の知の基盤となるにはどう変わらなければならないのかをもっと議論すべきでした。●大澤=吉見さんが緊急出版された『「文系学部廃止」の衝撃』は、まさにそのための呼び水となる本でした。・・・近代の国民国家を維持するうえで、大学は出版とならんで重要な役割を果たしてきました。そのプレゼンスは、出版の衰退と反比例するように今後大きくなっていくのかもしれないし、もろとも衰退するかもしれない。どちらでしょうね」。私個人としては、出版界に、もっともっと知恵を出して頑張ってもらいたいと願っています。

「専攻の二刀流主義を導入せよ」という提言には、大賛成です。「●吉見=一人の学生を一つの学部や学科に押し込めておくのはやめるべきだと私は考えています。目指すべきは二刀流主義。つまり、メジャー(=主専攻)/マイナー(=副専攻)制という仕組みを導入して、異なる分野の専門知を並行的に学べるようにする。積極的で優秀な学生には、ダブル・メジャー(=二重専攻)制も用意しておく。二つの専攻科目が取得できるようにする」。法学部出身の私は、製薬企業に入社したため、長期に亘り、専門外の医学・薬学関係の勉強を続けることになりました。この体験から、二刀流主義を強く支持します。