山本夏彦の辛口コラムのエッセンスが味わえる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1335)】
ハシブトガラスが電柱に止まっています。我が家にやって来るスズメは愛嬌があります。庭の片隅で、オモトの実が赤く色づいています。因みに、本日の歩数は11,261でした。
閑話休題、『座右の山本夏彦』(嶋中労著、中公新書ラクレ)は、山本夏彦に私淑し、「夏彦中毒患者」を自称する著者による、夏彦コラムのエッセンス集です。
「(夏彦は)天の配剤か、『ダメのひと』を逆手にとり、酔眼斜眼で森羅万象を切りとって、コラムという小宇宙に独自の文明批評、風俗戯評の世界を築きあげていくのである。歯に衣着せぬ言論をもって、人は夏彦を辛口コラムニストなどと呼ぶが、カレーじゃあるまいし、甘口も辛口もない。そこにあるのは『ダメのひと』だからこそ獲得できた冷静な批評眼と、ニヒリズムから発する荒涼たるユーモアであった」。
「物事を表裏同時に見る複眼的な視点・・・『骸骨や是も美人のなれの果』。夏彦にはこうした老荘的なニヒリズムが体内深く染み込んでいて、どんなえらそうなものに対しても軽やかに笑い飛ばす精神の勁さと高さがあった。おまけに類いまれなるブラックなユーモア」。
●忌憚なく言えということはほめてくれということだ。
●世論に従うのを当然とする俗論を読むと、私はしばしば逆上する。
●美しければすべては許される。「美しい詩や高雅な筆致の書などを前にすると、作者はさぞ人格清廉な人だろうと想い描いてします。しかしその期待は、しばしば裏切られる。萩原朔太郎や中原中也はお世辞にも高潔の士ではなかったし、『まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき・・・』と清純な慕情を詠った島崎藤村は、夏彦に言わせると<満身これ生殖器>のような男だった。・・・北大路魯山人の書や陶器の人気は高まる一方だが、魯山人その人は悪評紛々たる男だった。傲岸不遜、大言壮語、おまけに女ぐせが悪かった。・・・比類なく美しい文章を書いた永井荷風も、実際は<ウソつきでケチで助平でつめたくて>、他人の悪口ばかり言っているような人格低劣な男だった。・・・石川啄木は稀代の借金魔で、友人の金田一京助から借りた金をせっせと芸者遊びに注ぎこんだ。<金田一の華族にとっては啄木は疫病神のごとき友>だった。だから、と夏彦はいささか同情的にこう言う。作者と作品は別ものだよ、と」。
●中身はあり余っているのだが表現が伴わなくてと弁解するものがあるが、なにそう思いたいだけで、中身はないのである。
●もと美人たちは残念に思っている。「ホイジンガの『中世の秋』の中で、ある修道士はこんなふうに言っている。『女の魅力は、ただ、粘液と血液、体液と胆汁とに存する』と。あの一休禅師も『世の中の娘が嫁と花咲いて嬶としぼんで婆と散りゆく』と詠んだ。どんなに美しい女性でも、年齢とともに体液が蒸発し、ピチピチの肌も干した大根のようにしぼんでいく。<もと美人に二種類ある。すぐれて顔だちがいいのと、水分(ホルモン)だけでぴかぴか輝いているのとである。顔だちのいいほうは、いくら年をとってもその痕跡があるから、昔はさぞかしと言ってくれる人がある。言ってくれさえすれば、ホホと笑って打消せばいいのである。水分だけで光り輝いていた美人は、その水分が蒸発してしまえば、あとかたもなく美人でなくなる>。夏彦に言わせると、女は永遠に十七歳なのだそうだ。いや男だって同じで、中身は少しも年をとらないのに、表面の薄皮にだけシワが寄り、水分がみるみる蒸発していく。中身が変わっていない証拠に、白髪頭にはなったけど、少しも利口になってない。・・・<ことに許せないのは、自分よりはるかに劣った娘たちが、今ちやほやされていることである。ただ若いだけじゃないかと言ってみても、その若いだけが命で、それはひとたび去ったら帰らないのである。もと美人たちは残念に思っている。ことに水分だけで美しかった女たちは残念に思っている>」。夏彦の辛口は以前から承知していたが、どうしてどうして、本書の著者も辛辣です。
●年寄のバカほどバカなものはない。
夏彦の政治的主張などには賛成しかねるものも多いが、彼一流の視点と表現は大変勉強になります。