坂口安吾の面目躍如のエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1340)】
我が家の庭にジョウビタキの雄がやって来ました。餌台にはメジロのカップルが訪れます。食事をスズメに邪魔されても、隙を衝いて強かに戻ってきます。女房が指差す庭木の先を見上げると、野鳥の小さな巣が2つもあるではありませんか。残念ながら、どの野鳥の巣か分かりません。因みに、本日の歩数は10,002でした。
閑話休題、エッセイ集『安吾巷談』(坂口安吾著、三田産業)は、無頼派作家・坂口安吾の面目躍如の一冊です。
「湯の町エレジー」には、こういう一節があります。「私は探偵小説を愛読することによって思い至ったのであるが、人間には、騙されたい、という本能があるようだ。騙される快感があるのである。我々が手品を愛するのもその本能であり、ヘタな手品に反撥するのもその本能だ。つまり、巧妙に、完璧に、だまされたいのである。この快感は、男女関係に於ても見られる。妖婦の魅力は、男に騙される快感があることによって、成立つ部分が多いのだろうと思う。嘘とは知っても、完璧に騙されることの快感だ。この快感はまったく個人的な秘密であり、万人に明々白々な嘘であっても、当人だけが騙される妙味、快感を知ることによって、益々孤絶して深間におちこむ性質のものだ」。
「東京ジャングル探検」には、こうあります。「歴史に徴しても、無能な政府というものは、主として一時しのぎのさもしい量見で失敗しているものだ。自分の政敵を倒すために他人の武力をかりて、かえって武力に天下をさらわれてしまう。平安貴族の没落、平家の天下も、源氏の天下も、南朝の悲劇も、無為無能の政府が一時しのぎに人のフンドシを当にしたせいだ。敗戦後のいくつかの政府は、歴史上最も無能な政府の標本に属するものであったが、占領軍の指導で大過なきを得たのであった。歴史をくりかえすのはバカのやることだ。歴史は過ちをくりかえさぬために学ぶ必要があるのである」。
「熱海復興」には、福田恆存と小林秀雄が登場します。「熱海大火後まもなく福田恆存に会ったら、『熱海の火事は見物に行ったろうね』ときくから、『行ったとも。タンノウしたね。翌日は足腰が痛んで不自由したぐらい歩きまわったよ』。『そいつは羨しいね。ぼくも知ってりゃ出かけたんだが、知らなかったもので、実に残念だった』と、ひどく口惜しがっている。この虚弱児童のようなおとなしい人物が、意外にも逞しいヤジウマ根性であるから、『君、そんなに火事が好きかい』。『ああ、実に残念だったよ』。見あげたヤジウマ根性だと思って、私は大いに感服した。私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるような、イワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめは(新興宗教の)お光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。しかし、天性敏活で、チョコチョコと非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった」。