本書のおかげで、井上ひさしと妻の関係、娘たちとの関係が見えてきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1386)】
ユリカモメをカメラに収めました。『伊勢物語』や『万葉集』などに登場する「都鳥(みやこどり)」は、ミヤコドリ科のミヤコドリではなく、このユリカモメを指すとされています。因みに、本日の歩数は11,782でした。
閑話休題、私の好きな作家・井上ひさしの元妻と三女のエッセイ集とあっては、『女にとって夫とはなんだろうか』(西舘好子・井上麻矢著、KKベストセラーズ)を読まないわけにはいきません。
西舘好子は、女性が持つ底力に関して、こういうことを言っています。「私の老いの手本でもあるアメリカの絵本作家、ターシャ・テューダーは自然と共に暮らし自然の中で生涯を終え、この世からさよならした。厳しい自然と対峙し、その姿はたびたび映像で見たが、自然の中にすっかり溶け込んでいる姿は老木のはかなさと清楚を持ち合わせているようで、凛として見えて素敵だった。自然がすべてというターシャの生き方は、私などは絶対できないと知っていても憧れと尊敬の偉大なる手本だった。・・・それほど完璧な生き方をしているように見えるターシャでも二度の離婚をしている。世の中まったくなかなか思うようにはいかないものだ」。
三女の麻矢について、こう語っています。「麻矢の三度の結婚、離婚と再婚もドラマティックだ。・・・麻矢には父親が亡くなる前に劇団の跡取りに指名していったことで責任感が重くのしかかっている。一番気の合わない娘に後を託したのは不思議な気もするが、投げ出すことはないという確信が父親に大きく働いたのではないだろうか。その通り、その役目だけはなし遂げようと必死になっている。どこまでいっても真剣さとエネルギーは誰にも引けを取らないので、自分がやるべき仕事から逃げ出さない予測は父親に読まれていたともいえる。それまで長女が代表を務めていたことを思えば、なんでいまさら代表を変えるのか、と私も最初は愕然とした。姉妹の中にも亀裂が入るだろうし、感情的にもこじれる。納得いかず、これで家族も終わりかと思った。しかし、これはただごとではないと感じたのは、麻矢の家に泊まりに行っている時の夜中にかかってくる父親からの長電話だった。電話は夜中から朝までつづき、メモやら書類の出し入れなどもあり、結局徹夜のまま三女が仕事に行くことが何日もつづいた。彼は何かに取り憑かれたのではないだろうか、と勘繰りもした。が、父親がこの娘に最期を託していったことがいまは必然だと理解している。正直に自分に対峙し、けっして仲が良かったわけでもない娘なら冷静な判断を持ち、仕事として任せる安心感があったのだと私は納得し始めていた。仕事一筋、書くということを最期まで生き様としたいと生きてきた人の矜持がそんな結論を出させたのだと思うようになった。『僕の仕事は芝居しか残らないのだ』と何度も麻矢は聞いていた。長女も次女も自分の分身として、あまりに身近過ぎた。自分が亡くなった後の混乱を想定し、感情的になる子では持ちこたえられないという不安材料もあったのだろう。どんな時も身内には冷たさを持って挑まなければならないという作家の哀しい矜持を持ってきた父親は、覚悟して三女に託したのだ。そうでなければ長女や次女に死を覚悟の入院の際にも見舞いを拒否、葬儀の参列も拒否とはならなかったはずだ。会えば可愛さで気が緩んだ、いや、あえて父親を切れという願いだったのかもしれない」。
麻矢は、両親の離婚について、こう述懐しています。「どんな気持ちで家を出たかは母自身が語らないのだからわからない。・・・父と母は劇団をつくり、その過程の中で疲労困憊し、それぞれがあまりにも時代の波の中で戦う戦士のようになっていた。私は今、父と母のつくった劇団で働いているからそれがよくわかる。劇団さえなかったらと思うこともあるけれど、今はこの劇団が私の故郷のように感じることもある。二人のつくったものがここにはまだ残っている。私が何度もへこたれながら劇団を続けている意味は、これが二人のつくった私の故郷だからにほかならない。あの時代の父と母がまだいろいろなところに顔を出しては私を励ましてくれる。長いこと、親のかすがいになれなかった娘という自己嫌悪に陥っていた私であったが最近はこう思うことにしている。母があの日家を出て行ったから、こうして今、母は生きているのだと。ものをつくっている家庭がどのような環境で生きているかなど、その家のものにしか理解することはできない。戦士であり続けていたらきっと今、母はこの世にはいなかったであろう」。
「なぜ離婚したのか・・・母と父からはいまだきちんとした説明はない。その間に父はあの世へ旅立って行った。そのことを恨むわけではもはやないが、そんなふうに子供に思わせる親にだけはなるまいと思ったことは確かだ。親の愛というのは、子供に対してはいつだって与えてもらえるものだという自信が、何よりも子供にとっては大切なものなのだから」。
娘の父への思いは複雑です。「私は父に絶望し、父は私を遠ざけていた時期がある。私はどうしても母が苦労をしなくてはならないように仕向けた父を許すことができなかった。一人の女性に与えるにしてはずいぶんと非人道的なことをする男性だと思ってきた。でも、心のどこかで、そういう父は本当の父ではないと思ってもいた。私が幼い頃から知っている父ではない。野球場で一緒に野球を見ていた父はその市営グランドを歩くありんこにも気を配るような人だったはずだ。早くそういう父に戻ってほしいと思っていた。そしてこういう父に戻れた時に、初めて私は父とさらに理解し合いたいと思った。私がそれを拒んでも、私は父と母の娘であることに変わりはないのだから。私はその時から、いつか父と本当の意味で理解し合える時がくる。それは父が生きている間、私が生きている間に必ず訪れる。そう心の中で呟いていた。いや、祈っていた。呟いてその言葉を信じたその瞬間に、まるで雪が春になって自然に溶けてなくなるように、父はいきなり私を理解し始めた。私は何もしていない。私の周りがそうなるように自然な流れの中でそうなったのである」。
本書のおかげで、ひさしと妻の関係、娘たちとの関係が見えてきました。ひさしの文学、芝居、劇団は、尋常ではない状況の中から生まれ、育ってきたのだということが分かりました。井上ひさしファンには必読の一冊です。