長女が綴った堀田善衞の創作の舞台裏・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1403)】
ギョリュウバイが濃桃色の花をたくさん付けています。セロジネ・インターメディアが白い花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,306でした。
私の好きな作家・堀田善衞のことをもっと知りたくて、長女の手になる『ただの文士――父、堀田善衞のこと』(堀田百合子著、岩波書店)を手にしました。
「1960年、父は42歳。私は小学校5年生でした。このころ、私の部屋は父の書斎の隣でした。当時は、締め切りがせまってくると、父は徹夜徹夜の日々。夜中にふと目を覚ますと、隣の部屋から音がします。トントン。トントントン、不連続な音が切れ目なく続きます。ああ、父が起きていると思いつつ、再び眠りについたものでした。トントントンは万年筆の音です。万年筆を垂直に立てて、原稿用紙に一文字ずつ文字を書いている音なのです。・・・子守歌とは言わないまでも、隣の部屋で眠っている私にとっては安堵できる音であり、物書きを生業としている家の、深夜の小さな騒音でもありました。・・・『原稿を書くということは、原稿用紙の升目に一文字ずつ田植えをしているようなものだ』。父はそんなふうに言っていました。夜の静寂の中のトントントンは父の田植えの音だったのです」。
「父、資料の文献収集に関しては第六感が働く確率が非常に高いのです。本人は『自然体収集法』と言っていました。歩いていると、いつのまにか吸い寄せられるようにして、本屋や古本屋に入っていくと、そこにひょっこり探していたものがある。無理な努力はしないそうです。無理をすると、作品に害がおよぶかもしれない、と思っているらしいのです。それにしても、あのゴヤのタピスリー(=タペストリー)の本は重かった!」。
「『ゴヤ』連載中の4年間、Hを追うごとに、父の書斎は本で埋まっていきました。最初は1台だった机だけでは足りず、横にもう1台、後ろにもう1台と、増えていきました。年、地名、作品名、人名、すべてを頭の中に記憶しているわけもなく、カードを作り、自分流の索引を作り、カードケースを机の横におき、仕事をしていました。原稿を書くということよりも、資料を探し、読み、使いこなすことに、たぶん多くの時間が割かれていたことでしょう。画集が重い、手首が痛いと嘆いていたこともありました。ゴヤの耳が聞こえなくなったとき、父は一日中耳栓をして、聞こえないとはどういうことかと、自ら実験もしていました。母には、いい加減にしろと怒られていましたが・・・。そういう執筆時の、自身の楽屋裏についてはあまり話しませんでしたが。ゴヤがああした、ゴヤがこうした、ゴヤの耳が聞こえなくなった、また子供が死んだ、アルバ公爵夫人が死んだ、等々、父は毎晩書斎から戻ってきて、一杯飲みながら、その日のゴヤさんについて話し続けます。毎晩、ゴヤの動向を聞かされ続けている母と私、ついにゴヤさんは隣のおじさんになってしまったのです。・・・1976年8月18日深夜0時30分、『ゴヤⅣ』原稿終了(母の家計簿より)。父は書斎から跳び出してきました。『ゴヤが死んだぞ!』。父の眼から泪が流れていました。父の『ゴヤ』、終わりました。長い歳月でした」。
「『定家明月記私抄』は、『波』1981年1月号に第1回目を掲載し、その後1984年4月号までの連載すべてを、父はバルセロナの書斎にて書き綴っていったのでした。父母がこの(スペインの)アパートへ引っ越して1ヵ月半後、私は藤原定家関連の重たい書籍をスーツケースに詰め、冬物の衣類を本の間に詰め、父の好きな山芋を入れ、バルセロナに出かけました。その後、一体何度バルセロナに通ったことでしょうか。大仕事に付き合っていく家族というものも、書いている本人とは違った意味で、大変なのです。・・・定家さんは独自な漢文、父は読み下すのに本当に四苦八苦していました。教養がないと嘆き、『明月記わからん帳』というノートを作り、一言一句を理解するのに3日も4日もかかり、それが定家さんの当て字だったりすると、もう唖然、茫然、どっと疲れていました。当然機嫌も悪くなります。それが3年4ヵ月続きました。その後休筆をはさんで、日本において書かれた続篇、2年3ヵ月を併せれば、約8年です」。
「ラテン語の勉強と並行して、父は1988年『すばる』11月号から『ミシェル 城館の人』の連載を始めました。・・・60回、6年にわたる連載、休載は1回もありませんでした。父はモンテーニュさんを連載するにあたり、書斎の机を新調しました。半円形、真ん中を椅子が入るようにくりぬいた、大きな机です。ゴヤさんを連載中、資料や本が山積みとなり、机を継ぎ足し、継ぎ足しで仕事をしていて不便をかこっていたので、この机なら原稿用紙を真ん中にして、左右に資料や本を広げておけるのです。オーダーした机が書斎に運ばれてきたときに、父は言います。『こりゃ、大きすぎる。まだ、これで仕事をしなければならんのか。エライことだ』。しかし、満足そうでした。・・・大きすぎるどころか、すぐに机の上に空きはなくなっていきました。・・・16世紀を生きたモンテーニュさんは、父の表現者としての新たなスタートなのでしょうか。父のモンテーニュさんは、『ミシェル』、『われわれのミシェル』と、親しみをこめて呼ばれ、優しく語りかけてくれているように思います。『ミシェル 城館の人』は、『方丈記私記』や『ゴヤ』の文章と比べて、語気が少しだけおだやかで、ゆったりとしているような気がするのは、私の思い過ごしなのでしょうか」。
『ミシェル 城館の人』、『定家明月記私抄』、『若き日の詩人たちの肖像』を読んで、善衞の筆力に圧倒された私だが、本書に描かれている善衞には親しみを感じてしまいました。