榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『太平記』や『水滸伝』の驚くべき影響力を見抜いた男・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1532)】

【amazon 『百年の批評』 カスタマーレビュー 2019年6月29日】 情熱的読書人間のないしょ話(1532)

小雨が降り続く中、我が家の塀を3匹のナメクジが這っています。気味悪がる女房に、ナメクジは進化の過程で殻を失ったカタツムリだと言っても、納得しません(笑)。

閑話休題、『百年の批評――近代をいかに相続するか』(福嶋亮大著、青土社)で展開されている福嶋亮大の言説には、私の考えとは異なるものが散見されるが、一方で教えられることの多い一冊です。

「『太平記』のプロトコル」における楠正成論、『太平記』と『平家物語』の比較論は、優れて独創的です。「『太平記』にはサインを解読する軍人、サインを儀式によって制作する為政者、歴史を説得のレトリックとして用いる陰謀家らが現れる。彼らはサインに潜む未来の予兆を読み取ろうとするが、新田義貞、後醍醐天皇、三善文衡らのように、その解読に失敗し没落するケースも『太平記』では珍しくない。だからこそ、夢と象徴の宇宙の申し子のような楠正成が、『太平記』でもとびきりの神話的存在として際立ってくるのだ。ここで『太平記』と『平家物語』の比較を交えるのは有益だろう。かつて文芸批評家の保田與重郎は、『平家物語』の木曽義仲と源義経について『世界』を所有していないと評した。平家の没落が大きな時代精神を背負っているのに対して、彼ら二人にはいかなる理念的な相続者もおらず、ただ虚しく栄え、虚しく死んでいくばかりである。二人の代表的な軍人が世界喪失者であったために、『平家物語』はうつろな人間の画廊のようにも見えてくる。『平家物語』冒頭で示される『諸行無常』の観念も、このうつろさと無関係ではない。それに対して、『太平記』の正成はたくさんの種子を含んだ神話的人物であり、多くの子孫を残した。ちょっとした事件のあいまにも漢籍の物語を挿入し、象徴的宇宙を広げていく『太平記』の語りは、『平家物語』の書きぶりと比べるとバランスを欠くが、この巨大な宇宙を背景にしているからこそ、楠正成は意味の重力を手に入れることができた。後の『忠臣蔵』の大石内蔵助は正成の生まれ変わりとして理解され、幕末の勤王家にとっても正成は行動のモデルとなった。正成は歴史的連続体のなかで長い死後の生を与えられた。そして、この持続力は『太平記』という中国化した物語文学から生じたのである。この点で、楠正成は近代の『翻訳的主体』の先駆者にほかならない。・・・かつて司馬遼太郎が評したように、『太平記』は『文学書である以前に、歴史をもっともつよくうごかした戦慄的な書物』である」。

「ルソー 晩年の想像力 AR/VRの時代を先取り」の着眼点のユニークさには、心底、驚かされました。「近代的な私=自我の発明者とされる18世紀のルソーを例にしよう。主著『エミール』を大学から告発され、匿名のパンフレットで事実無根の中傷を受け、持病の尿道疾患の治療ミスで死を覚悟した50代のルソーは、自己弁護のために自伝『告白』を記した。この書物は西洋近代の自己表現のルーツとなり、日本文学にも大きな影響を与えた。近代の『私』の原点は、社会・身体・医療にまたがるルソーの一連の『トラブル』にある。無風地帯から『私』など出てこないのだ。しかし、ルソー晩年のエッセイ『孤独な散歩者の夢想』では別の条件から『私』が立ち上がってくる。老いた彼は自らを社会不適合の『異星人』のように感じながら、植物への尽きせぬ愛を語る。そして、かつて自然豊かなサン・ピエール島に住んだときの記憶に没入し、至福の境地に至るのだ。そのとき、ルソーは現実よりも想像力をより生々しく感じていた。『実際にあの島にいたときよりも、パリにいる今のほうが、あの島を五感でとらえ、さらに心地よく感じているのだ』。この奇妙な感覚は、ほとんど今日のAR(拡張現実)を先取りするものに見える。近代社会はいわば『告白』の路線で『自己の表現』を重んじた。対して、今後のAR/VRの進化は、良し悪しは別にして『孤独な散歩者の夢想』のような『自己への沈潜』を後押しするだろう。ひとびとは過去の記憶やネットの検索を手がかりに、自分ひとりのために調整された拡張現実を孤独に生き始める・・・。トラブルだらけの現実と美しい拡張現実の間で、孤独な老人ルソーは『未来の私』の像を予告していた。この種のタイムスリップの発見こそが、半歩遅れで思想書を読む醍醐味なのだ」。

『告白』と『孤独な散歩者の夢想』は、私の若い時代の愛読書であったので、著者の指摘に、興味を強く惹かれたのです。

「アナーキーな小説『水滸伝』 日本文学に飛躍をもたらす」は、『水滸伝』の本質に鋭く肉薄しています。「大学時代に中国文学を学んだため、知人から『中国を知るのに良い古典はないか』と時々聞かれる。ビジネス書では『論語』や『三国志演義』が好まれるのだろうが、私はあえて近世の長編小説『水滸伝』を挙げることにしている。儒教の理念を奉じる士大夫が中国文明の骨組みを形作ってきたのに対して、『水滸伝』はむしろ儒教エリートの外部の民衆的世界をあざやかに浮かび上がらせた。北宋末期を舞台に、宋江以下の108人の荒ぶる好漢たちが梁山泊に集うという壮大なストーリーのなかに、医者、武器職人、書道家、肉屋、力士、薬売りといった都市の職業人たちが次々と登場する。それは中国文学史上に異彩を放つ『発見』だった。・・・17世紀の中国の文人たちは、新しい俗語文体を駆使しながら狭苦しい道徳観念を打ち破った『水滸伝』に熱狂した。のみならず、このアナーキーな小説は、江戸時代の上田秋成『雨月物語』や曲亭馬琴『南総里見八犬伝』等にも決定的な影響を与えた。『水滸伝』はまさに近世東アジア随一の『前衛小説』であり、その翻訳は日本文学も飛躍させたのだ。加えて、『水滸伝』では潘金蓮をはじめ、美しい悪女たちが活躍することも見逃せない。・・・悪女を残酷に罰するばかりの日本の『八犬伝』と違って、本家の『水滸伝』では女性の悪こそが輝いていた。ともあれ、ありきたりの中国論はおいて、まずはこのハチャメチャで独創的な傑作を手にとってみること――それは中国だけでなく日本の文化風土を考えるきっかけも与えてくれるだろう」。

「108人の荒ぶる好漢たち」という表現に接し、都立富士高1年の時、担任の唐木宏先生から「好漢、奮起せよ」と激励され、劣等生から脱却できたことを、懐かしく思い出してしまいました。

自分のとは異なる思考に触れることは、刺激的な楽しみを与えてくれるだけでなく、自らの思考を深めるのに役立つと考えています。