榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

一流の人物と日本庭園の関わりを知ると、一段と興趣が増す・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1535)】

【amazon 『一流と日本庭園』 カスタマーレビュー 2019年7月2日】 情熱的読書人間のないしょ話(1535)

栃木と群馬の境に聳える日光白根山で、コマクサ、ヤマオダマキ、シラネアオイ、シロバナノヘビイチゴなどの高山植物を観察しました。群馬・沼田でサクランボ(佐藤錦、紅秀峰など)を賞味しました。因みに、本日の歩数は12,467でした。

閑話休題、『一流と日本庭園』(生島あゆみ著、CCCメディアハウス)の中で、とりわけ興味を惹かれたのは、「一休禅師と虎丘庭園(京都)」、「スティーブ・ジョブズと西芳寺(京都)」、「水戸光圀と小石川後楽園」です。

「一休の晩年、薪村に色々な文化人が訪ねて来ます。能楽の金春禅竹、連歌師の柴屋軒宗長、そして侘び茶の祖、村田珠光です。虎丘庵は一時期、芸術家たちが集う場所となり、当時の文化サロンとなりました。・・・虎丘庭園を作庭したであろう村田珠光。・・・当時、村田珠光はそれほど有名ではなかったのですが、千利休が、一休および村田珠光を尊敬していたので、後に『侘び茶の祖』として村田珠光が脚光を浴びることになります。村田珠光は能阿弥に書院茶を学び、当時庶民の間に伝わっていた簡素な茶の様式を取り入れました。また、一休に参禅して禅の精神を取り入れ、精神的・芸術的な茶道を作り上げていきました。・・・一休の禅の思想が、球光の『侘び茶』の思想と融合したとき、茶の湯に、禅の精神性という哲学が入り、平等が説かれ、簡素化されました。そして、虎丘庭園が、思想の融合の産物として生まれたと言えるのではないでしょうか」。一休が茶道に大きな影響を与えていたとは――本書で初めて知りました。

「西芳寺の関係者から聞いたことですが、スティーブは家族を伴う来訪以外にも、おそらくいく度かお忍びで訪れているようです。でも、西芳寺の方々は誰も気づかなかったらしいです。お忍びの訪問は、スティーブ・ジョブズの伝記本によって初めて知ったそうです。ということは、VIPであった彼も、他の人たちと一緒に、ちゃんと本堂で参拝を終えてから、庭園に入ったことになります。一般客と同じでも、ひとり静かにここで時間を過ごしたいとの思いだったのかもしれません。では、スティーブは西芳寺庭園のどこがどのように気に入っていたのでしょうか。ここからは私の想像の域を超えませんが、3つほど考えられます。まずは、やはり、清楚で美しい苔の景色を好んでいたのではないでしょうか。・・・2番目は、禅に傾倒していたので、夢窓疎石の残した石組の力強さに感銘したのではないでしょうか。そして3つ目は、西芳寺庭園全体から醸し出される無(悟り)の境地、平穏で心を落ち着かせ瞑想状態になれる環境、その心地よさが好きだったのかもしれません」。西芳寺は、本当に心が落ち着きますね。

「(徳川)頼房が富士山や京都の大堰川など名勝を表現した景観を造りましたが、2代目・光圀は庭園を完成させるために、石造りの円月橋や西湖(せいこ)堤など中国のテイストを盛り込みました。(師の)朱舜水の影響が見てとれ、事実、作庭法など彼から学んでいました。丸いアーチ型の円月橋は、朱舜水自身が設計したと言われています。中国の杭州にあった白楽天など文化人の憧れの景勝地『西湖の堤』の景色の縮図は有名で、以後日本各地の大名庭園に大きな影響を与えました。1.4m幅の細い道が池の中央に約40m一直線にまたがっていて、その真ん中に小さなアーチ型の橋があり、ともすれば見落としてしまうぐらいの光景です。こうしたことが小石川後楽園の最たる特徴、つまり歩いて巡るだけで、京都や中国の名勝を鑑賞できる、今で言う『テーマパーク』のような面白みを生むことになります」。私が社長を務めていた会社のすぐ近くにある小石川後楽園には、しょっちゅう訪れていました。中国・杭州の長~い西湖堤を歩いて渡った時は、これが小石川後楽園の西湖堤のモデルなんだなと、深い感慨に耽りました。

その庭園の由来を知った上で訪れると、一段と興趣が増しますね。