源義朝を騙し討ちにした長田忠致の悲惨な最期と山椒太夫の共通項・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1552)】
アオイトトンボ、ベニシジミ、コジャノメ、キタキチョウをカメラに収めました。紫色の花を咲かせ、芳香を放つフサフジウツギ(ブッドレア)には、級蜜しようと多くのチョウたち――イチモンジセセリ、オオチャバネセセリ、アゲハチョウ――が集まっています。昨日、今日と2日続けて庭の草取りをしたら、足腰が立たなくなってしまいました(笑)。草取りで隠れ場がなくなったヤモちゃん(ニホンヤモリの愛称)が来なくなるかと心配したが、今晩も、ちゃんと現れました。
閑話休題、私は源頼朝、義経たちの父・源義朝が信頼していた家人(けにん)・長田忠致の騙し討ちに遭い、非業の死を遂げたことに強い関心を寄せてきました。今回、何気なく読み始めた『中世日本を生きる――遍歴漂浪の人びと』(新井孝重著、吉川弘文館)の中に「『長者』長田忠致について」という章を見出し、嬉しくなってしまいました。
「『平家物語』を読むと、尾張国の住人で長田庄司忠致という興味ぶかい人物が登場する。長田庄司は平治の乱の敗残者源義朝を、おのれの主でありながらおのが欲望のために殺害し、憎むべき下賤な悪人として『平家物語』にその名を残した人物である。かれをとりまく交通と商業の要素、かれの商人的打算の思考、そして最後にみる没落の伝説などは、どれもが『長者』のそなえもつ要素というべきであって、わたくしはこの『長者』なるものに中世成立期特有の商人像をみるわけである。このものを経済学的にみたばあい、大塚(久雄)氏の云うところの典型的な『前期的資本』に該当するものと思えるのである」。ここで、私の敬愛する大塚久雄の名に出会えるとは、喜ばしいことです。
「(義朝の『一の郎等』とされる)鎌田(正清)は野間内海荘の長田庄司とは、かの娘(長田の娘)を妻として婿と舅の関係にあり、自身もまた内海に屋敷を構えていたという所伝がある」。
「源義朝一行は知多半島西海岸(内海、現南知多町)に上陸して野間にある長田庄司忠致の屋敷にはいった。長田の屋敷にはいるなり、さすがに義朝は安堵したことであろう。というのは長田が源家相伝の家人であるからで、義朝にとっては青墓宿からこの屋敷に来るまでが、いわば『危ない橋』であったからである。だが皮肉なことに、その『危ない橋』を渡りおえたところで義朝は命を落とす。敵の虎口を脱して逃げ込んだ、もっとも安心できるはずの家人の屋敷のなかで、永暦元(1160)年1月4日、かれは家人長田の手により殺されてしまうのである」。
「義朝裏切りを決意した長田忠致父子は、なうての強力・殺し上手を湯屋に配置しそこへ義朝を誘いいれた。都の合戦といい、逃亡の道すがらといい、さぞや大変だったでしょう、ごゆるりと『御行水候へ』というわけである。義朝はすっかり気をゆるして中にはいった。そして主の垢を流す従者の金王丸が帷子を取りに外へ出たときである。かねて手はずの長田の手のもの3人が中に走りいり、裸の(無防備な状態の)義朝に襲いかかった。1人が義朝を後ろから羽交い絞めにし、2人の者が左右から組み寄って、脇の下からふた刀突き刺したという」。
忠致は主君の首を平氏に差し出したが、期待した恩賞に与ることはできず、やがて、頼朝によって磔刑に、しかも嬲り殺しにされてしまいます。「わたくしたちは『平家物語』を読むと、そこに描かれた長田庄司忠致の最期が、どこか説教節の『山椒太夫』と似ているのに気づく。強欲で残忍な丹後国由良湊の長者山椒太夫は逃走をくわだてた奴隷の姉弟に火印を押し、姉の安寿を責め殺す。しかし逃げとげた弟厨子王丸は長じて出世し国司となって丹後にまいもどる。ここで遍歴流浪のすえに奴隷にされた厨子王丸は、長者山椒太夫に酷烈な報復にでる。かれは山椒太夫を国分寺の庭に肩まで埋め、竹鋸で首を切るのである。それも三郎(邪慳な子ども)に父の太夫の首を切り落とさせるというものであった。・・・長田の処刑と同じくこれも紛うことなくなぶり殺しである。長田庄司と山椒太夫の最期に共通するのは、かれらが遭遇せねばならなかった残酷な死だけではない。両者ともに世人から一片の同情さえ与えられないことも共通するところである。それどころか人びとのあいだでは、両者の死に『ざまあみろ!』といわんばかりの快哉の気分(カタルシス)が横溢しているのである」。まさに今、興味を持って調べている説教節『山椒太夫』に話が及ぶとは、私は何と運がいいのでしょう。