日本史研究の最新成果を取り入れた、出口治明の日本史講義・中世篇・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1554)】
夏祭りの季節がやって来ましたね。あちこちから、囃子太鼓の音が聞こえてきます。
閑話休題、『0(ゼロ)から学ぶ「日本史」講義(中世篇)』(出口治明著、文藝春秋)の著者・出口治明は、日本史研究の最新成果を積極的に取り入れています。
とりわけ興味深いのは、●武士の起源、●平清盛の高評価、●源頼朝は源氏嫡流ではないという指摘、●足利義教の高評価――の4点です。
「武士は京都が起源で、王家や貴族たちの用心棒として発生したと考えていいと思います。その意味では、在地領主制論者が想定していたような、都の支配階級の古い体制を突き崩していこうとするダイナミックな民衆の尖兵というよりは、武士は権力者側の一員であり、軍事貴族と呼ばれるのにふさわしい存在だったようです。京都でそういう地位を得たうえで、『地方の荘園が荒らされているから、ちょっと片付けてこい』と命じられて、押領使や追捕使というかたちで派遣されるようになっていった。・・・桃崎有一郎さんはさらに一歩進めて、王臣子孫×現地豪族×伝統的武人輩出氏族(もしくは蝦夷)のかけ合わせが武士を生んだと説明しています」。私も、『武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世』(桃崎有一郎著、ちくま新書)から大いに刺激を受けました。
「僕は、清盛はスティーブ・ジョブズのようなベンチャー企業のリーダーだと答えました。そして頼朝は、清盛のグランドデザインを真似てマネージした大会社の管理職タイプではないかと。平清盛は中世では足利義満と並ぶ傑出した存在だったと僕は思っています。・・・清盛の強みは何かといえば、まず経済力が圧倒的だったことです。・・・その富を築くうえで何よりも重要だったのが、日宋貿易を押さえていたことでしょう。貿易はすごく儲かります。・・・新しいビジネスを開く才覚があったわけで、清盛は合理的、開明的なリーダーでした。・・・最近の研究では、『平氏政権』の成立をもって、武家の政権がスタートしたと考えられています。・・・治安警察権とか、守護、地頭とか、鎌倉に似た福原と六波羅の二元体制とか、内裏大番の警備とか、院政対策とか惣官など、鎌倉幕府の骨格といわれるものは、全部清盛が作っているんですね。それが、日本最初の武家政権は平氏政権であるといわれる所以です。源頼朝は独創性はなかったのですが、マネージ力は超一流でした。清盛のグランドデザインは頼朝が跡を継いで実現することになります」。清盛と頼朝の業績の本質と相違点が、見事に表現されています。
「義家は河内源氏の棟梁になり、その子が義親、その子が為義、その子が義朝、そしてその子が鎌倉幕府を開いた頼朝なので、ここが源氏の棟梁の家系ということになりました。ところが細かく見ると、為義は庶子で、厳密にいえば頼朝は頼義、義家の嫡流ではないのです。そもそも為義の父の義親は義家の次男ですが、たびたび略奪殺人を働いたので、平正盛によって追討されます。河内源氏の棟梁は義家の四男の義忠が継ぎました。義忠は有能で伊勢平氏とも共存関係を築きます。・・・ところが、嫡流の義忠が暗殺されるのです。犯人は義家の弟義綱の三男義明とされ、義綱も追討されるのですが、その追討使となったのが為義でした。その結果、為義が庶子でありながら源氏の嫡流を継ぐことになったのです。・・・為義、義朝、頼朝と続く源氏の棟梁の血筋と称するものが、実は正統性が覚束なく、血塗られた起源を持つものだということは覚えておいたほうがいいと思います」。この鋭い指摘には、慄然とさせられました。
「六代将軍足利義教は、業績からいえば僕は義満や信長に並ぶ存在じゃないかと思っています。・・・義教は将軍になったばかりですが、難しい皇位の継承や南北朝のごたごたをビシッと収めているわけです。この後花園天皇が現在の皇室の直接の祖先となります。そして弟の貞常親王(伏見宮四代目)から、戦後に皇籍離脱した十一宮家(旧皇族)が生まれています。もともと義教はとても優秀な人でした。足利義満の五男として生まれ、10歳で天台宗のお寺に入り、26歳で比叡山延暦寺のトップである天台座主にまでなっています。1429年、将軍に就任した義教が目指したのは、父、義満のあり方でした。・・・現在、学者の間では、室町幕府の権威は三代将軍義満の時代より、義教の時代にピークをつけたのではと考えられています。義教は北朝断絶の危機を乗り越え(南朝を抑え込み)、守護の勢力を削り、そして東日本の独立政権だった鎌倉公方を滅ぼしたわけですから」。私の頭の中では目立たない将軍だった義教が、急に大きな存在に膨れ上がりました。