榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

現在望み得る伊勢宗瑞(北条早雲)の最高の評伝・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1671)】

【amazon 『戦国大名・伊勢宗瑞』 カスタマーレビュー 2019年11月13日】 情熱的読書人間のないしょ話(1671)

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閑話休題、『戦国大名・伊勢宗瑞』(黒田基樹著、角川選書)は、現在望み得る伊勢宗瑞(そうずい。伊勢新九郎盛時)の最高の評伝と言っても過言ではないでしょう。伊勢宗瑞は従来、「北条早雲」と呼び習わされてきたが、この名称には歴史的根拠がないと、著者は主張しています。

とりわけ、3つの指摘に強く興味を惹かれました。

第1は、宗瑞のこれまでの、一介の素浪人から戦国大名に成り上がった下剋上の典型例というイメージが、新史料の発見等により覆されていること。

なお、生前の宗瑞をよく知る人間による宗瑞評はいずれも、宗瑞は倹約家であったが、戦時には惜しみなく財を投じる人物であったということで共通しています。

第2は、京都の室町幕府内で順調な出世街道を歩んでいた若き宗瑞が、駿河に下向してきた背景が解明されていること。

「伊勢宗瑞は、32歳の時の長享元(1487)年に、すでに室町幕府官僚としての立場にあったなかで、姉北川殿(=今川義忠の正妻)の求めに応じてであろう、駿河に下向して、甥竜王丸(=後の今川氏親)の存立をもたらした。その後は帰京して、再び幕府官僚として仕事をしていたところに、36歳の時に、またもや北川殿の求めによるとみられるが、竜王丸をめぐる情勢変化への対応のために、再び駿河に下向し、竜王丸の存立に尽力した。そして2年後には、幕府における明応の政変に呼応するかたちで、堀越公方足利家との抗争を開始し、それによって同時に、それまでの幕府直臣の立場を捨てて、駿河今川家の一員となる覚悟を固めたとみなされる。時に38歳。これが宗瑞の人生の転換を決定づけるものとなった」。宗瑞は、京都において所領の回復や維持を図るよりも、駿河で甥の竜王丸の存立に人生を捧げ、そのもとで自身も存立するという道を選択したのです。

第3は、戦国大名としての宗瑞が行った画期的な事績が具体的に示されていること。

「宗瑞は、大名と村落や職人らとの間に介在する、家臣やその被官らによる不正を排除し、その行動を規制する改革を行ったのであった。不正をはたらいた役人について、その主人の頭越しに処罰することは、その主人権を大きく制約することになった。こうして大名と村落との直接的関係の在り方は、さらに進展がみられていった。それは、村請(むらうけ)の体制化のさらなる制度的展開といっていい。そしてそれをもたらしたのは、何よりも不当な公事賦課の排除を求める、村落からの要求にあったであろう。それなくして、そうした宗瑞の対応も生み出されなかったに違いない」。村宛文書の創出、直轄領における公事賦課制度の改革、そこにおける役人の不正の排除、それを担保するための目安制の創出――といった宗瑞による一連の改革は、深刻な飢饉という非常事態に対応するためのものであったというのです。「おそらく宗瑞としては、領国における大飢饉という危機を克服するために、懸命の対応であったと思われる」。