榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

自然淘汰による生存闘争がなかったら、生物は絶滅してしまう・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1689)】

【amazon 『残酷な進化論』 カスタマーレビュー 2019年11月30日】 情熱的読書人間のないしょ話(1689)

千葉・野田の理窓公園と周辺を巡る黄葉・紅葉観察会に参加し、紅葉、黄葉を楽しみました。メタセコイアの雄花の蕾、ノハラアザミの花、アキノギンリョウソウ(ギンリョウソウモドキ)の実、シオデの実、タイサンボクの種が落ちた実も観察することができました。滅多に見ることのできないアキノギンリョウソウは、葉緑素を持たず、菌類から栄養を得ている腐生植物(菌従属栄養植物)です。因みに、本日の歩数は18,571でした。

閑話休題、『残酷な進化論――なぜ私たちは「不完全」なのか』(更科功著、NHK出版新書)の読み所は、「自然淘汰と直立二足歩行」(1)、「人類が難産になった理由とは」(2)、「生存闘争か、絶滅か」(3)、「一夫一妻制は絶対ではない」(4))、「なぜ私たちは死ぬのか」(5)――の章です。

(1)について。「自然淘汰は、将来を予想して頑張ることが、まったくできない。自然淘汰は生物を、適応度が高くなる(つまり子をたくさん残せる)ように進化させるけれど、この『適応度が高い』というのは、『現在において適応度が高い』という意味だ。私たちヒトは、二本足で歩く動物だ。体を真っすぐに立てて歩くので、直立二足歩行と言う。この直立二足歩行が、自然淘汰で進化したことに疑う余地はない。つまり、直立二足歩行をすると、よいことがあるわけだ。具体的には。直立二足歩行をすると両手が空くので、食料を運ぶことができる。それが重要だったらしい」。

「直立二足歩行をする生物は、人類しかいない。しかし、直立しなくてもよければ、二足歩行をするサルや類人猿はたくさんいる。樹上を二足歩行するサルや類人猿もたくさんいる。約700万年前にその中の1種が直立二足歩行を始めた。もしかしたら、それは私たちでなくてもよかったのかもしれない。他のサルや類人猿でもよかったのかもしれない。進化では偶然も大きな役割w0果たしているのである」。

(2)について。「私たちの脊柱は、たとえば腰の辺り(つまり子宮のすぐ後ろ)では前に膨らみ、その下(つまり産道のすぐ後ろ)では逆に後ろに膨らむようなカーブを描いている。そのため、ヒトの胎児は産まれるときに、体をS字に曲げなければならない。これが、難産の原因になっている。しかし、直立二足歩行をしているために、私たちの内臓は下向きに重力を受ける。何もしなければ、骨盤の穴をくぐり抜けて落ちてしまう。そのため、内臓が落ちないように筋肉が発達している。この筋肉が出産のときには邪魔になる。これも、難産の原因の1つになっている。難産の原因の2つ目は、胎児の頭の大きさだ。私たちは大きな脳を持っているため、産道を通るのが大変なのだ」。

(3)について。「ホモ・エレクトゥス以降、私たち人類は走るようになった。そして私たちは、逃げるのは苦手だが、追いかけるのは得意になった。それは私たちが、短距離走は苦手だが、長距離走は得意だからである。・・・ウシでもシカでも、全力疾走をすれば、私たちより速い。だから、追いかけ始めても、最初は私たちを引き離して、どんどん先へ逃げてしまうだろう。しかし、いつまでも全力疾走ができるわけはない。どんなにウシやシカが遠くに逃げても、姿が見えているかぎりは、私たちは追跡をやめない。いや姿が見えなくても、足跡が残っていれば、やはり追いかけていくことができる。・・・ウシやシカを長時間走らせて、疲労や心臓麻痺で倒してしまえば、私たちは豪華な食事にありつくことができただろう」。

「ホモ・エレクトゥスは走り出した。走るのに適した体の構造は、『遺伝』と『走るという行動』と、その両者によってつくられた。そして、走るという行動によって、人類の進化の方向が大きく変わることになった。日常的な肉食ができるようになり、十分な栄養が摂れるようになったことで、脳の増大への道が開かれたのだ」。

「(ダーウィンの言うところの生存競争は)もちろん起きている。生存競争というのは、必ずしも血を流すような闘いを意味しているわけではないからだ。もしも夫婦で、平均2匹しか子供をつくらない生物がいたとしたら、そういう生物は、必ず絶滅する。なぜなら、事故や病気で死ぬ個体が1匹もいない、なんてことはないからだ。必ず何匹かは事故や病気で死ぬので、次の世代の個体数は必ず減る。それが続けば、早晩必ず絶滅してしまう。そのため、少なくとも事故や病気で死ぬ数を補うくらいは、子供を多めにつくらなくてはならない。ということで、すべての生物は子供を多めに産む。そして、もしも(現実にはそういうことはないけれど)子供がすべて大人になるまで育って、その子供たちがまた子供をつくれば、どんどん個体数が増えてしまう。しかし、地球の広さや資源には限りがあるので、つまり地球には定員があるので、定員からあふれた個体は生きていけない。椅子取りゲームで考えれば、地球には一定の椅子しかないということだ。だから、どうしても椅子に座れない個体が出てきてしまう。したがって、椅子の和より1匹でも多くの子供をつくれば、生存闘争は自動的に起きてしまうのである。生存闘争とは地球における椅子取りゲームのことで、すべての生物が必ず行っていることだ。もしも生存闘争をしない生物がいたら、地球はとっくにその生物で埋め尽くされているはずだ。だから、生存闘争をしない生物はありえないし、生存闘争を考えない進化論もありえないのだ」。

(4)について。「どうして人類には牙がなくなったのだろう。・・・もし牙を使わなければ、自然淘汰によって、犬歯は小さくなっていくだろう。したがって人類は、あまり牙を使わなくなったと考えられる。おそらく、あまりメスをめぐって争うことがなかったのだろう。人類はチンパンジーより平和な生物なのだ。・・・一夫一妻的な社会では、メスをめぐるオス同士の争いは、一夫多妻や多夫多妻の社会よりも穏やかになる。そのため、約700万年前の人類は、一夫一妻的な社会をつくるようになったので、オス同士の争いが穏やかになり、犬歯が小さくなった可能性がある。・・・人類というものは、配偶システムが一夫一妻的なものになったために、他の類人猿と分かれて、独自の進化の道を歩み始めた。そういう可能性が高い」。

「ヒトは共同で子育てをする。父親はもちろん、祖父母やその他の親族が子育てに協力することもよくあるし、血縁関係にない個体が子育てに協力することも珍しくない」。

(5)について。「地球の大きさは有限なので、そこで生きられる生物の量には限界がある。地球には定員があるのだ。だから、定員を超えた分の個体は、気の毒だけれど死ななくてはならない。・・・自然淘汰が働くためには、死ぬ個体が必要だ。自然淘汰には、環境に合った個体を増やす力がある。しかし、なぜそういうことが起きるかというと、環境に合わない個体が死ぬからだ。環境に合うとか合わないとかいうのは、相対的なものである。『より環境に合った個体が生き残る』ということは、『より環境に合っていない個体が死ぬ』ということなのだ。だから、自然淘汰が働き続けるためには、生物は死に続けなくてはならない。でも、死に続けても絶滅しないためには、分裂したり、子供をつくったりしなくてはならないのだ。だから、もしも死なないで永遠に生きる可能性のある生物がいたら、その生物には自然淘汰が働かない。自然淘汰が働かなければ、周りの環境に合わせて進化することができない。・・・そんな生物は環境に適応できなくて、絶滅してしまうだろう。・・・死ななくては、自然淘汰が働かない。そして、自然淘汰が働かなければ、生物は生まれない。つまり、死ななければ、生物は生まれなかったのだ。死ななければ、生物は、40億年間も生き続けることはできなかったのだ。『死』が生物を生み出した以上、生物は『死』と縁を切ることはできないのだろう。そういう意味では、進化とは残酷なものかもしれない」。

説明が分かり易いのに、決してレヴェルを落としていないのが、本書の特徴と言えるでしょう。読み応えのある一冊です。