江戸時代に、日本独自の「石門心学」という哲学が広まった理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1723)】
地元の千葉・流山の茂侶神社で初詣で。獅子舞に女房も頭を噛み付かれそうになりました(笑)。因みに、本日の歩数は10,763でした。
閑話休題、『日本を創った12人(後編)』(堺屋太一著、PHP新書)に収められている「石田梅岩(ばいがん)――『勤勉と倹約』の庶民哲学」のおかげで、石田梅岩という人物の本質を知ることができました。
「石田梅岩は『石門心学』の始祖である。石門心学とは、『石田派の心の学』の意味だ。現在ではさほど知られていないが、その門流の講釈所『心学塾』は、江戸時代の後半から明治初期まで全国にあり、大きな勢力を持った精神修養団体だった。もちろん武士や大名も参加したが、石門心学の説く清廉で勤勉な精神は圧倒的に庶民の中に広まり、『勤勉と倹約』という町人哲学を生み出した」。
「(商家)奉公引退後の享保14(1729)年、45歳の時、初めて京都車屋町の自宅に心学の塾を開いた。当時の45歳というと隠居の年齢であり、現代の感覚でいうと60歳近くなって定年退職した後に私塾を開いたような感じだろう。これから60歳で世を去るまでの約15年間、塾の先生として門弟の指導もすれば著作もするという人生を送った」。
梅岩が説いたのは何だったのでしょうか。「まさに勤勉に働くこと、倹約して清貧に生きること。そして勤勉と倹約の2つを両立させるにはどうずべきか、という問題への解答だった。単に勤勉だけでなく、同時に倹約を説き、その両立を目指す倫理を発表したところが重要である。その根源は、彼が独自に考えた『諸業即修行』に集約できる。勤勉に働くことは人生修行だ、というのである」。
「梅岩の著作『倹約斉家論』や、門人との共著『都鄙問答』、弟子の質問に対する答えを弟子が記録した『石田先生語録』は、結局のところ『勤勉に働けば人格修行になる』ということを繰り返し述べている」。
「それまで女性を対象にした学校などはなかったが、石門心学が女性を歓迎したのは驚くべき進歩性である」。
石門心学の紹介で終わっていないのは、さすが堺屋太一です。「石田梅岩という風変わりな商家の番頭がはじめた心学の思想は、その後の日本と日本人に大きな影響を残しており、今日の激しい時代変化の中でも考えるべき課題となっている。・・・享保時代の統制社会の中で庶民の知恵として興った石門心学は、まさに日本人がつくり出したきわめて独創性豊かな哲学である。今や、われわれは生産性が高くなり、豊かになった。そのわれわれに必要なのは、石田梅岩の哲学を超える新しい倫理と美意識である」。