84歳の筒井康隆の、文学を巡る自由闊達なエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1762)】
あちこちで、赤いウメ、白いウメが咲き競っています。因みに、本日の歩数は10,302でした。
閑話休題、『不良老人の文学論』(筒井康隆著、新潮社)は、84歳の筒井康隆の、文学を巡る自由闊達なエッセイ集です。
「井上ひさしのこと」では、井上ひさしの文学に対する姿勢が描かれています。「作品のために、それで図書館ができるほどの膨大な資料を買い込んでいる彼のことを知っていたから・・・一度彼の真似をしようとしたことがある。『四千万歩の男』の向こうを張って関孝和を書こうとしたのだ。和算の本をたくさん買い込んだものだが、とりかかろうとしても一指も動かなかった。彼の努力に勝てる作家は今後も出るまいなあ。・・・彼は何でもできる人だった。歴史と戦争が彼のテーマだったと思うが、同時に娯楽性も追究していた。戯曲『ムサシ』の序幕、武蔵が小次郎を倒したあと、『そちらにお医者はおられぬか』と叫ぶくだりなど、これからの絶妙の展開を予想させる名場面であろう。こうした高度なユーモアになってくると、おれなどの及ぶところではない」。筒井の井上に対する尊敬の念が伝わってくると同時に、筒井の謙虚さには好感が持てます。
「わが死にかたの指針――山田風太郎『人間臨終図巻(4)』」では、死が語られています。「作家として手本にすべきは、なんといっても野上弥生子であろう。毎日原稿用紙2枚をノルマとして長篇『森』を書き続け、数え年で100歳のお祝いの会では明晰な言葉で挨拶を返し、亡くなった時には、87歳から書き綴っていたこの『森』がほとんど完成していたと言う。しかも『森』にはまったく衰えが見られず、老いの影も見えず、その年の最高作とする評論家もいたというから驚くべきものだ」。「山田風太郎は『死』にたいへん興味を抱いていた作家である。パーキンソン病その他の病気に罹っていたため、比較的早くから自身の死を見つめていたのだろうと思う。その死生観は小説を読んでもあちこちに散見できるのだが、エッセイにおいては何と言っても『あと千回の晩飯』にとどめをさす。あと千回しか晩飯を食えないだろう自分を、末期の眼で見つめているのだ。そして山田風太郎は、この図巻を書いたのち79歳でこの世に別れを告げている」。『あと千回の晩飯』を無性に読みたくなりました(『人間臨終図巻』は読了済み)。
「谷崎と映画とぼく」では、谷崎潤一郎作品のあれこれが俎上に載せられています。「谷崎の作品というのは読者に、ただ単に読後の感動だけではないさまざまなことを思わせてくれる。池澤夏樹は『蘆刈』が好きだったようで、新幹線に乗っていて山崎あたりで淀川を渡るとき、中州を見て『あっ、ここは<蘆刈>の舞台だ』と気づき、ずいぶん感動したことを直接ぼくにも言ったし書いてもいる。『蘆刈』は語り手と聞き手のふたりがその中州で語り合うという話なのである。今まで読んだ中でのぼくの一番のお気に入りはというと、これはもうはっきりと『卍』であろう。こんなに複雑な話を饒舌体でもって面白おかしく語ってしまえるというのは天才としか言いようがない。その次が『武州公秘話』であろうか。グロテスクさのあまり腹をかかえて笑ってしまうという体験はこの作品を読んだ時以外にあまりない。この作品は映画にはなっていない筈だ。いい作品というのはやはり映画にはなり得ず、小説でしかその醍醐味を味わえない、といったものではないのだろうか」。未だ読んでいない『武州公秘話』を、私の「読むべき本リスト」に加えました。