榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

生類憐みの令を出し続けた徳川綱吉は犬公方だったのか、それとも名君だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1774)】

【amazon 『「生類憐みの令」の真実』 カスタマーレビュー 2020年2月22日】 情熱的読書人間のないしょ話(1774)

クリスマスローズがさまざまな色合いの花を俯き加減に付けています。ローズマリーが淡紫色の花をまとっています。サザンカも頑張っています。ヒューケラ・ファイヤーアラームの茶色の葉が目を惹きます。花粉を生産する雄花をびっしりと付けたスギを目にした途端、花粉症の女房は足早に遠ざかりました(笑)。因みに、本日の歩数は10,898でした。

閑話休題、『生類憐みの令」の真実』(仁科邦男著、草思社)は、近年、喧伝されつつある綱吉名君説に異議を申し立てています。

五代将軍・徳川綱吉は、20年余りに亘り、生類憐みの令を出し続けました。犬、馬から鳥、魚介類、虫まで、あらゆる動物への慈愛を説き、その実践を人々に強要しました。綱吉がなぜ、このように過剰な行為に走ったのか、その謎に迫ったのが本書です。

「生類憐みの令には綱吉個人の感情がさまざまに投影されている。その感情がわからなければ、この法令の真実の姿は見えてこない。綱吉の心の奥底には人や動物の死に対する強い嫌悪感がある。これが生類憐みの令の伏線である。そういう人間が絶対権力者である将軍になった。これが第2の伏線である。綱吉は38歳の時、嫡子徳松5歳を亡くした。綱吉は自分の血を受けていない者を跡継ぎにするつもりはなかった。(側用人の)柳沢吉保の回顧談に『御前(綱吉)は御子様を亡くされてから、御誓願あそばされ(願掛けし)、毎朝御精進なされた』とある。『御精進』の中には鳥や生きた魚料理をやめたことも含まれるだろう。綱吉の生類憐みは嫡子誕生祈願を動機として始まり、嫡子誕生をあきらめた時、理想社会を実現するための施策として、生類憐みに新たな意義を発見した。そのことを高く評価する人たちもいるが、所詮は独りよがりの政策でしかなかった。嫡子誕生祈願説は辞書、事典、教科書からも消えてしまった。それでいいのだろうか。いや、消されてしまった。それでいいはずがない。綱吉にとって最大のテーマだった嫡子問題を抜きにして生類憐みの令を語ることはできない。綱吉が何を考えて生類憐みの令を出し続けたのか、そのことを知るためには事実を知るしかない。だから、くどいくらいに事実を書き連ねた。表向きの『動物愛護』という言葉に惑わされると、綱吉の本当の姿が見えなくなる」。

手元の『詳説 日本史』(山川出版社)には、こう記載されています。「殺生を禁じ、生あるものを放つ、仏教の放生の思想にもとづく生類憐みの令は、綱吉政権による慈愛の政治という一面をもっている。しかし大部分の人びとにとって、行き過ぎた動物愛護の命令は迷惑なもので、とくに犬の飼育料を負担させられた関東の農民や江戸の町人の迷惑は大きかった。綱吉が死去すると生類憐みの令は廃止され、人びとはほっとしたが、この結果、犬を食すことはなくなり、現在に至る」。

「綱吉の厳罰主義は徹底している。元禄2(1689)年5月11日、江戸城のお堀でコイやフナを捕まえ、それを売り買いしていた町民9人が全員死罪となった。この事件の経過をたどっていくと、綱吉がどんな人間であったかが、かなり鮮明になるだろう」。酒に酔って犬に脇差を向けて追い払ったため、磔になった男の事例を始め、馬の尾の脇を小刀で突いて追放になった事例、犬を切り追放になった事例、刀で切りつけた犬は死ななかったが、追放になった事例、馬の脚を脇差で切りつけて追放になった事例、飼い犬を切り殺し追放になった事例、馬の尻と内股を刀で切りつけ追放になった事例、馬の尻を脇差で切りつけ追放になった事例、馬を切り追放になった事例などが列挙されています。

事実の裏付けがあるだけに、著者の主張は、強い説得力があります。うかうかと綱吉名君説に乗りかかっていた私は反省すること頻りです。