「リベラリズムは成功したからこそ、失敗した」とは、どういうことか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1790)】
オオカンザクラ、カンヒザクラ(ヒカンザクラ)、ツバキカンザクラ、ヨコハマヒザクラ、ヨウコウが咲いています。コヒガンが咲き始めました。メジロ、コゲラがサクラからサクラへと飛び回っています。因みに、本日の歩数は13,722でした。
閑話休題、リベラルを自任する私にとって、『リベラリズムはなぜ失敗したのか』(パトリック・J・デニーン著、角敦子訳、原書房)は見逃すことのできない一冊です。
本書の論点は3つに整理することができます。
第1は、リベラリズムが失敗したとは、具体的に何を指しているのか、そして、リベラリズムは、なぜ失敗したのかということ。
「リベラリズムは失敗した。リベラリズムを実現できなかったからではなく、リベラリズムに忠実だったからである。成功したために失敗した。リベラリズムが『完成形に近づき』、秘められていた論理が明らかになり自己矛盾が目に見えてくると、リベラリズムのイデオロギーは実現されているが、その主張通りにならないという病弊が生じた。平等を促進し、さまざまな文化や信念が織りなす多元的タペストリーを擁護し、人間の尊厳を守り、そしてもちろん自由を拡大するために世に送りだされた政治哲学が、現実にはとてつもない格差を生み、画一化と均質化を押しつけて、物心両面でも堕落を助長し自由をむしばんでいる。成功が、達成してくれると信じていたことの逆の成果によって評価されているのだ。ここで必要なのは積み重なる不幸な状況を、リベラリズムの理想に従って行動しなかった証しとして見るのではなく、リベラリズムがもたらした破滅はその成功の印であるときちんと理解することだ。病んでいるリベラリズムの治療を求めてさらにまたリベラルな方法を適用するのは、火に油を注ぐようなものだ。政治と社会、経済、モラルの危機を深めるばかりだろう」。すなわち、理想と現実の隔たりが大きくなり過ぎると、その理念は崩壊するというのです。
「『自由』という言葉は、(リベラリズムの)現代の根本的な誓約であると捉えられている。だが、人生のかなりの部分で自由は後退しているのではないか。たとえば多くの市民は、政府を実際にはコントロールできないし、政治に自分の声は届かないと感じている。先進民主主義において多くの有権者の投票行動の動機尾となっているのは、自分らの声が聞かれているという確信ではなく、もはや自己統制の主張を認めないシステムに、反対投票をしたいという思いなのだ。と同時に、消費者の選択といった領域の自由は飛躍的に拡大して、いつまでも充足できない渇望を満たすために、多くの者が身に余る負債をかかえるはめになっている」。恐ろしいほど、私たちの現実を抉り出しているではありませんか。
第2は、このまま放っておいたら、リベラリズムはどうなってしまうのかということ。
「1830年代初期に訪米したアレクシス・ド・トクヴィルは、タウンシップ(アメリカの基層的な自治単位)民主主義についての文章の中で、アメリカ人が地域の市民生活に熱心に関与していることに驚きを表明している。『合衆国の市民の生活の中で政治への関わりがどれほど大きな場所を占めているか、言うのは難しい。社会の統治に関与し、それについて論ずることは、アメリカ人の最大の仕事であり、いわば彼の知る唯一の楽しみである』。トクヴィルはアメリカの民主主義が進めば『個人主義』や孤立、市民の消極性につながると予言することになるのだが、実際に目の当たりにしたのはそれとほぼ正反対の現象だった。『アメリカ人が万一、自分自身の仕事以外に没頭するものがないという事態におかれたならば、その瞬間から彼の生命の半ばは奪われたも同然であろう。彼は毎日限りない空白を感じ、信じられぬほどの不幸を味わうであろう』」。
「リベラリズムは完成形に近づくにつれて、自由、平等、正義、機会について表明された主張と正反対の形で機能するようになる。現代のリベラリズムは、命令によってリベラルな秩序を押しつけるという手段にますます訴えるようになるだろう――とくにごく一部の少数派によって運営される行政国家として。この少数派は次第に民主主義を見下すようになる。民主主義者またはポピュリストの不満の回避策が規範となり、監視や法的規制、警察力、行政統制の広範におよぶ権威とともに、ますます可視化する巨大な『闇の国家』の力がリベラルな秩序の後ろ盾となる。同意と民衆の支持にもとづくというリベラリズムの主張とは裏腹に、こうした手段の配備は続くだろう。このような結論は自己矛盾しており、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で、民主主義は最終的に新しい形の独裁制になると予見した結論と一致している」。
「リベラリズムの後継として可能性があるのは、リヘラロクラシー的な独裁制、もしくは厳格で残酷にもなりえる権威主義的な体制である」と、著者は、トクヴィルの考え方を強く支持しているのです。トクヴィル自身と『アメリカのデモクラシー』に対する理解を深めるには、『トクヴィル――平等と不平等の理論家』(宇野重規著、講談社学術文庫)があります。
第3は、リベラリズムは今後、何を目指すへきかということ。
「今のわたしたちが必要としているのは、新しく現実的な文化の創造に目を向けて地域の環境で育まれる慣習、家庭内の高度な技術に根差した経済、ポリスでの市民生活の実現である。よりよい理論ではなく、よりよい実践。このような状態と、そこから形成される異なる哲学は、最終的に『リベラル』の名にふさわしいものになるだろう。500年におよぶ哲学の実験が自然消滅しようとしている今、新しくよりよいものを築く方法は見えている。今日の人間の自由を最大限に証明するのは、リベラリズム後の自由を想像し築きあげるわたしたちの能力なのだ」。著者のこの物言いは、抽象的で具体性に欠けるように見えるが、著者が目指しているのは、人々が近隣の住民とともに地域の問題を解決し、自制と自律の習慣を身に付け、政治的判断力を養成するという共同体主義なのではないでしょうか。