榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

チェーホフとの10年に亘る恋を綴った、人妻の回想録・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1862)】

【amazon 『私のなかのチェーホフ』 カスタマーレビュー 2020年5月19日】 情熱的読書人間のないしょ話(1862)

キショウブ(黄色)、クレマチス(紫色)、ハコネウツギ(これは花色が白色から赤紫へ変化する)、ハルジオン(筒状花は黄色、舌状花は白色)の花が咲いています。ハルジオンとヒメジョオンの花はよく似ているが、葉が茎を抱いていればハルジオン、抱いていなければヒメジョオンです。

閑話休題、『私のなかのチェーホフ』(リジヤ・アヴィーロワ著、尾家順子訳、群像社)は、女性作家リジヤ・アヴィーロワが晩年に出版した回想録であるが、人妻のアヴィーロワと5歳年上のアントン・チェーホフとの10年に亘る交際が詳細に綴られているので、波紋を呼びました。

1889年1月24日、姉の邸で憧れの作家チェーホフに引き合わされたアヴィーロワは、チェーホフを恋してしまいます。「間近で見つめ合っただけだ。だがそれで十分だった! わたしの胸のなかで確かにのろしに火がつき、弾むように、くっきりと高くあがったのはこのときだ。アントン・パーヴロヴィチ(チェーホフ)も同じ感覚だったにちがいない。わたしたちは驚きと喜びに打たれて見つめ合った」。この時、アヴィーロワは24歳、チェーホフは29歳でした。

「チューホフと知り合って3年が過ぎた。彼のことを思い出すたびに淡い夢のような悲しみを覚える。わたしはもう3人の子持ちだった。リョーワ、ロージャ、乳飲み子のニーノチカ。夫は父親の鑑で、家計の足しにと内職をし、そのうえ空いた時間はすべて子どもの相手や世話に充ててくれた」。

1892年1月に二人は再会します。「今度こそ分かった。わたしが愛しているのはアントン・パーヴロヴィチだということが、ついにはっきりと、紛れもなく分かった。愛している!」。そして、二人の間で文通が始まります。

その後、友人の邸でチェーホフと再会したアヴィーロワは、翌晩、夫が不在の自邸にチェーホフを招待します。「『出会ったころのこと、覚えていますか。そしてご存じだろうか・・・僕が心底あなたの虜になったことを。真剣でした。恋していました。これほど夢中になれる女性が他にいるとは思えなかった。あなたは美しくて、棒の心をぐっと掴んだ。若い頃のあなたはとても初々しくて鮮やかな魅力がありました。僕はあなたに恋して、あなたのことばかり考えていました。久しぶりに会ったあなたはいっそう美しくなって、見違えるほど新鮮でした。あなたという女性を見直し、新たに、前以上に愛さなくてはと思った。別れるのがますます辛くなった』。長椅子に坐って背もたれに頭を凭せた彼と、向い側の肱掛椅子のわたし。たがいの膝が触れあわんばかりだった。見事な低温を響かせる落ち食いた語り口ではあったけれど、表情は険しく、冷ややかな厳しい眼をしていた。『知っていたのですか、あなたは』。この人は腹を立てている、わたしが裏切り、変わり、醜くなり、張りをなくし、無感動になって、魅力のない女になり果てたことを非難している、と感じた。『悪夢』という言葉が脳裡をかすめた。『愛していました』。チェーホフは言葉を続けながら、怒りと腹立ちを露わにわたしを見据えて屈みこんだ。『しかし僕には分かっていた、あなたはその辺にいる女性とは違うということが。愛する以上は終生清く神聖に愛さなければならないということが。触れるのがこわかった、傷つけたくなかったのです。そのことを知っていたのですか』。彼はわたしの手を取ったかと思うと、とたんに放した。不快そうだった。『なんと冷たい手だろう』。そういいざま、立ちあがって時計を見た」。

その後、時折の出会いがあり、断続的に手紙のやり取りが続きました。「もう、恋心も淋しさも隠せなかった最後の手紙。投函したことでいつまでも自分が許せなかったこの手紙は書留にしたから受け取ったに違いないが、やはり返事はなかった。わたしたちの間にあったのが誤解ではなく、完全な破局だということをわたしは思い知った。アントン・パーヴロヴィチがいかなる関係もきっぱり断ち切ろうと決心したこと、彼が決心した以上そうなるのだということを悟ったのだ。わたしは茫然となった」。

チェーホフが結婚したことを知ったアヴィーロワは、手紙を送ります。「与えてくれたすべてに対して感謝をした。『わたしたちの恋は本物だったのでしょうか。本物であろうと想像の産物であろうと、どんなにあなたに感謝していることでしょう! あの恋のおかげで、わたしの青春はまるごと、薫り高いきらきらひかる露を浴びたようでした。祈ることができるのならこんなふうに祈るでしょう。神様! あの方がご自分の素晴らしさを、気高さを、かけがえなさを、そして愛されていることを理解されますように。そうすれば、しあわせでないはずがなくなります』」。

1904年7月2日にチェーホフが44歳で病死したことを知った場面で、この回想録は終わっています。

「訳者あとがき」によれば、研究者らの関心は、アヴィーロワの回想録の信憑性、つまり、チェーホフの側に彼女に対する恋と呼べる感情があったかどうかに集中しているとのことです。本書には、チェーホフからアヴィーロワに宛てた手紙10通が収録されているが、どの手紙にも書かれているのは、アヴィーロワから送られてきた彼女の作品に対する率直かつ厳しいとさえ思われる文章指導ばかりで、愛情表現的なものは見当たりません。このことから、残念ながら、彼女の恋は一方通行の独り相撲であったと判断せざるを得ないのです。