なぜ、若い人に教養が必要なのかが、よく分かる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1866)】
女房の、チョウよ、という声に慌てて振り返ると、アカボシゴマダラが交尾の真っ最中。ツマグロヒョウモンの雄、シオカラトンボの雄、雌(ムギワラトンボとも呼ばれる)をカメラに収めました。私は日本茶一本槍だが、女房は日本茶とコーヒーの二刀流です。因みに、本日の歩数は13,105でした。
閑話休題、『教養の書』(戸田山和久著、筑摩書房)は、若者に向けて書かれた教養の勧めです。「読み返してみると、かなり説教くさいぞ。ま、許してください。なにせ、本書はこれからの世の中をつくっていく若い人たちへの呼びかけとして書いたんで、どうしてもそうなるのは仕方ないやね。・・・ところで、『自由な人格』の『自由』とは何か。それは何からの自由だろうか。きみたちにはもうわかっているはず。それはまず、自分自身からの自由だ。自分の恐れ、知的怠惰、バイアス、偏見から自由になること。そして、自分が見につけた言葉からの自由だ。自分の専門分野からの自由、生まれた土地からの自由、国家からの自由。教養は、きみがこうしたさまざまな拘束から自らを解き放ち、魂の自由を獲得するためのものなんだ。このような意味での『自由人』になってはじめて、よい世の中をつくる、ということができるようになるんだろう。そして、よりよい世の中をつくるという仕事は、きみたちがきみたち自身のためにやらなくてはならない。・・・ごめんね。こんなダメな世の中にしてしまって。だけそ、なんとかこの社会をちょっとはましなものにしていってください。そのために、教養への道を歩み始めてほしい、そう思ってこの本を書きました」。
決して若くはない私の心に響いた著者のメッセージを挙げておきます。
古典――
「作り手が作品に隠した仕掛けがうまくいくには。多くの人が『はいはい、あれでしょ』と理解でき、そのような理解が成り立つことを作り手も期待できるような、共通の知識基盤が必要になる。『古典(クラシック)』と呼ばれているものは、そういう知識基盤のコアだ。シェイクスピアの戯曲やジェーン・オースティンの小説は古典中の古典。『ライオン・キング』はハムレット、黒澤明の『乱』はリア王、『蜘蛛巣城』はマクベスをそれぞれ下敷きにして作られている。『ブリジット・ジョーンズの日記』はオースティンの『高慢と偏見』の現代版だ。他にいくらでも例を挙げることができる。ミルトンの『失楽園』を踏まえて、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』が書かれ、さらにそれを踏まえてリドリー・スコット監督は『ブレードランナー』を撮った、とか。・・・ようするに、『当然知ってるよね、だからこっちも知ってることを前提して進めさせてもらいますよ』という態度が、独り善がりにならない程度の大きさの集団に対して(できれば国境を越えて、長期にわたって)通用する作品なら何でも『古典』なんである」。
ネット検索――
「楽しみと結びついた知識の働きは検索で代替できない。というのも、楽しみは即時的な体験だからだ。楽しいことに遭遇したとき、そのときは楽しみを感じずにためておいて、寝る前に一日分をまとめて楽しもう、ってできないでしょ。そのときその場で味わわないと楽しみは消えてしまう。・・・(落語の落ちを)笑えなかった人が、あとで検索してカリギュラって何かを知ったとしても、もう笑えない。うちに帰ってから、スマホで検索して『そういうことだったのか、ムハハハ』ってやってる人がいたら、かなり気持ち悪いぞ。ネット検索ってじつはゆっくりした検索方法じゃないだろうか。少なくとも、『思い出す』ということに比べればはるかに時間がかかる。というわけで、リアルタイムに楽しむということに関しては、知識を自分の頭の中に入れておくことはまだ重要なのである」。まさに、そのとおり!
クイズ的知識――
「クイズ的知識(雑学的情報)と教養との違いについて語られている。・・・クイズ的知識は知識断片がただ雑然と集積されているだけ。だから一問一答にしか使えない。・・・これに対して、教養のためには、知識が全体として構造化されていなければいけない。まず、カテゴリーに分類され、それぞれに重要度が割り振られている必要がある。教養ある人はいろいろ知っているが、何が重要な知識で何がそれほどでもないかの判断込みで知っている。・・・教養には幅広く豊かな知識が必要だが、その知識が全体としてある種の構造をもっていることも必要なのである」。まさに、そのとおり! 私は読書は大好きだが、クイズ番組は嫌いなので一切見ません。
読書――
「教養のある人、あるいはそれを目指そうとしている人にとって、読書とは何か。まず、彼らにとって、読書は単なる情報収集ではない。・・・教養ある人は、『いまここ』にいない人々、つまり過去の人々、地の果ての人々、虚構の人々と時空を超えてダイアローグするために読む。そして、『それがおもしろい』ので読む。・・・大げさに言えば、ダイアローグとしての読書は、つねに少しだけ新しい自分に生まれ変わるために行われる」。まさに、そのとおり!
定義――
「われわれにとっての教養とは、『社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在』であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、また、己に『規矩』を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程も意味する。ここでの素養・能力には、以下のものが含まれる。①大きな座標系に位置づけられ、互いに関連づけられた豊かな知識。さりとて既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑。②より大きな価値基準に照らして自己を相対化し、必要があれば自分の意見を変えることを厭わない闊達さ。公共圏と私生活圏のバランスをとる柔軟性。③答えの見つからない状態に対する耐性。見通しのきかない中でも、少しでもよい方向に社会を変化させることができると信じ、その方向に向かって①②を用いて努力し続けるしたたかな楽天性とコミットメント」。ケチを付けるわけではないが、いささか表現が硬過ぎるんじゃありませんか、戸田山先生。
批判的思考――
「自分の思考そのもの、そして自分が考えるのに使っている言葉、メディア、方法論などなどを対象として、それは適切に使われているか、本来の限界をはみ出して使っていないかということをチェックする、という意味だ。ようするに自分で自分の思考にツッコミを入れることだね。このセルフツッコミを『批判的思考』という。けっして、議論で相手をやり込めて自分の考えを通そうとするためのものではない。批判の相手はまず第一に自分自身なのである、だから、批判的思考は自己相対化の一つのやり方であり、教養の不可欠の要素だ」。
アマゾンのレビュー ――
「本を読んでなんだか腑に落ちない、つまらないときに、すぐに本のせいにするのではなく、まずは、たんに自分が読めていないだけではないのか、おもしろく読むだけの能力がまだないのではないか、という自己反省に向かうこと。それが教養のある人の態度だ。こういう(読解力不足のレビューが溢れている)状況は、書評を生業にしている人にはカンに障るだろうなあ、と思っていたら、書評家の豊﨑由美が『ニッポンの書評』(光文社新書)にこんなことを書いていた。<粗筋や登場人物の名前を平気で間違える。自分が理解できていないだけなのに、『難しい』とか『つまらない』と断じる。文章自体がめちゃくちゃ。論理性のかけらもない。取り上げた本に対する愛情もリスペクト精神もない。自分が内容を理解できないのは『理解させてくれない本のほうが悪い』と胸を張る。自分の頭と感性が鈍いだけなのに。・・・都合が悪くなれば証拠を消すことのできる、匿名ブログという守られた場所から、世間に名前を出して商売をしている公人に対して放たれる批判は、単なる誹謗中傷です。批判でも批評でもありません。・・・批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。的外れなけなし書評を書けば、プロなら『読めないヤツ』という致命的な大恥をかきます。でも、匿名のブロガーは?>」。戸田山は豊﨑由美に共感の嵐だが、私も敬愛する豊﨑に共感の大嵐です。因みに、私は現在、アマゾンのレビュアーランキング37位だが、本名で、顔写真を出して、しがない書評を書き続けています。