榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

毛沢東は、なぜ、文化大革命を引き起こしたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1891)】

【amazon 『文化大革命――人民の歴史 1962~1976』 カスタマーレビュー 2020年6月18日】 情熱的読書人間のないしょ話(1891)

アガパンサスが薄青色の花を付けています。白いテッポウユリと橙色のスカシユリの競演です。赤色、赤桃色、薄紫色、黄色のスカシユリも咲いています。ヘメロカリスが朱色+黄色の花を咲かせています。我が家の庭のマツバギクにヤマトシジミの雄がやって来ました。

閑話休題、『文化大革命――人民の歴史 1962~1976』(フランク・ディケーター著、谷川真一監訳、今西康子訳、人文書院、上・下)は、中国の文化大革命の全体像を俯瞰するのに最適な一冊です。

文化大革命の始まりから終末までが対象となっていること、地方(省・市)の資料を含め、最新の研究成果が踏まえられていること、権力の上層部だけでなく、民衆の心理や行動にも目配りがされていること――が、本書と類書との違いを際立たせています。

文化大革命に関する私の関心は、3つにまとめることができます。

第1は、毛沢東が文化大革命を起こそうとした動機は何かということです。

「文化大革命は、自分が社会主義世界の歴史の中軸になろうとする、毛沢東の(数千万人の命を奪った大躍進政策に続く)2度目の試みだった。レーニンは、世界最初の社会主義革命である十月革命を成功させて、全世界のプロレタリアートの先例を打ち立てた。ところが、フルシチョフのような現代修正主義者が党内での主導権を奪い、ソ連を資本主義復活の道へと導いてしまった。プロレタリア文化大革命は、国際共産主義運動史における第2段階であり、プロレタリア独裁を修正主義から守ろうとするものだった。共産主義の未来を支える基礎杭が中国の地に打ち込まれようとしていた。毛沢東が、世界中の抑圧され、虐げられた民衆を自由へと導くのだ。毛沢東は、マルクス・レーニン主義を受け継いで守り、マルクス・レーニン主義-毛沢東思想という新たな段階へと発展させた人物だった」。

「多くの独裁者と同様に、毛沢東の場合も、自身の歴史的使命についての誇大な意識と、異様なまでに相手に敵意や悪意を向ける性質とを併せもっていた。何かというとすぐに腹を立てて憤慨し、そのことをいつまでも忘れなかった。人命が失われることを何とも思っておらず、民衆をおどすために行なった多くの政治運動では、住民の一定割合を殺すように平然と言い渡した。年齢を重ねるにつれてだんだんと、長年の戦友だった者も含め、同僚や部下に矛先を向けるようになり、公衆の面前で吊し上げて、拘禁し、拷問を加えるようになっていった。そんなわけで、文化大革命は、一人の老人が人生の終盤に個人的な恨みを晴らすために行なったものでもあったのだ」。

「このような文化大革命の2側面――修正主義を排した社会主義世界を築こうとする未来に向けた展望と、実際のまたは妄想上の政敵に復讐しようとするさもしい陰謀――は必ずしも相容れないものではなかった。毛沢東にとって、自分自身と革命との間には何の区別もなかった。彼自身が革命だった。わずかでも自己の権威に不満の意を表明されると、プロレタリア独裁に対する直接的な脅威として感じられたのである。しかも、彼の地位を脅かすものはごまんとあった」。その標的となったのが、彭徳懐、劉少奇、鄧小平、林彪らだったのです。

第2は、毛沢東の後継者と目されていた林彪が飛行機事故で死亡するに至った背景は何かということです。

「いったい何が起きたのかは、いまだに謎に包まれたままだが、ほどなく、林彪は毛主席暗殺の陰謀が失敗してソ連に亡命しようとしたらしい、という噂が流れ始めた。毛沢東暗殺計画の背後にいたとされるのが、林彪の25歳の息子、林立果だった。・・・林立果は、父親の立場が脅威に晒されているのを知っていたし、毛沢東は政敵と見なした相手に対して、生半可なやり方では済まさないこともよく理解していた。・・・結局、暗殺計画は実行されずに終わった。毛沢東がその陰謀をかぎつけたのかどうかは定かでないが、9月8日の夜半に突如、南部の巡察を省略して、北京に引き返すように専用列車に命じたのだった。・・・(毛沢東が父親に攻撃を仕掛けてくることを怖れ、逃亡を勧める林立果に対し)父親はそれを拒んだ。青白く痩せていて、髭も剃らず、目が落ち窪んでいる林彪は、数か月前から自分の身に降りかかることを悟っており、その運命を受け入れる覚悟ができているようだった。・・・その晩、周恩来は電話で知らせを受けたが、林彪一家の搭乗を阻止する手立ては何一つ講じなかった。林立果と(林彪の妻)葉群は、林彪が身支度するのを手伝い、午後11時半ころ、半ば引きずるようにして彼を車に乗せ、40分ほど走って地方空港に急行した。・・・一行の乗った飛行機が空のかなたに消えるとすぐ、あたりは真っ暗闇に包まれた。北京では周恩来が、国内の飛行機をすべて地上にとどめ、滑走路灯を消すように命じていた。飛行機は北に向かって飛んでいったが、燃料不足のためにあまり遠くまでは飛べず、モンゴルの草原に墜落した」。1971年9月13日の深夜2時30分頃のことでした。

第3は、自分に終始忠誠を尽くし、国民に人気のあった周恩来を、毛沢東はどう見ていたのかということです。

「(1973年の)周恩来総理はますます孤立を深めていった。毛沢東は、周恩来が古参幹部の名誉回復や、経済秩序の立て直しを図ろうとするのを警戒していた。自分が死んだとたんに、周恩来が文化大革命を方向転換させて、自分の政治的遺産を脅かすようになるのを恐れていたのだ。周恩来はどんなときでも毛沢東に忠誠を尽くしてきたが、それは純然たる政治的計算によるものであって、イデオロギー的信念に基づくものではなかった。ある伝記作家は次のように述べている。『腰の低い紳士で、どんなときも忍耐と寛容さをもって物事を進め、つねに思慮深くてバランス感覚に優れているのに、じつに如才なく洗練されている周恩来は、毛沢東からすると何とも胡散臭い存在だった』。1974年1月、毛沢東は,(妻)江青とその一派を周恩来総理の上位に処遇し、周を『現代の大儒』であるとして暗に批判した」。

毛沢東がライヴァル視して追い詰めた劉少奇の最期の状況、毛沢東に忠実、従順であった周恩来に対する毛沢東の仕打ちを知ると、胸が痛むと同時に、怒りが込み上げてきます。

「1969年11月12日、党から除名処分を受けてから1年後、劉少奇が独房で死亡した。ベッドから起き上がれないほど衰弱していたが、沐浴、着替え、排泄など身のまわりの世話をする者はだれもいなかった。からだじゅう褥瘡だらけで、げっそりとやつれ、毛髪は長く伸びてぼさぼさだった。両脚の筋肉が萎縮して立ち上がることができなかったが、それでも看守は、自殺されるのを恐れ、体を包帯でベッドに縛りつけていた。1967年に逮捕されて以後、批判闘争大会で吊し上げられて繰り返し暴行を受け、糖尿病の薬も処方されなかった。肺炎も患っていたが、第9回党大会まで生かされていた。毛沢東から党中央委員会会議で劉少奇の審査報告をさせられた周恩来は、かつての同僚を『裏切り者、敵の回し者、罪悪を重ねた帝国主義者、現代修正主義、国民党反動派の走狗』と批判した」。

「周恩来は、1972年に膀胱がんと診断されたが、医師団はそのことを本人には知らせず、毛沢東はがん治療は必要なしとの指示を出した。1974年5月、がんが他の部位にまで広がったが、それでも大手術は不要とされた。絶えず出血し、毎日のように輸血を受けながら、周恩来は職務を果たし続けた。6月に初めて手術を受けたが、もうすでに手遅れで、その数か月後には主要臓器への転移の徴候が発見された。彼が最後に公の場に姿を現したのは、1974年9月30日、国慶節前日の政府主催の晩餐会の席だった。痩せて衰弱しきった姿で、2000人を超える海外からの賓客を含めた、4500人の出席者の前に現れたのだった。・・・1976年1月8日、周恩来が死去した。末期の膀胱がん、直腸がん、肺がんに蝕まれて痩せ細ってはいたが、それでも端正な顔立ちに変わりはなかった」。

毛沢東が最晩年に患っていた病名が明かされているのには、驚きました。「毛沢東はこのときすでにルー・ゲーリック病(筋萎縮性側索硬化症)らしき症状に苦しんでおり、精神機能に異常はないものの、のど、咽頭、舌、横隔膜、肋間筋などを制御している神経細胞が徐々に損なわれつつあった。支えなしではほとんど立つこともできず、呼吸には酸素マスクが必要だった。鼻腔チューブから鶏の煮出し汁を注入することで栄養を摂っていた。ろれつが回らない不明瞭な言葉を唯一理解することができる張玉鳳――20年以上前に誘惑した特別列車の服務員――を介さなければ意思の疎通もままならなかった」。

説得力に満ち、読み応えのある、力の籠もった著作です。