哲学は「死」をどう考えているのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1899)】
オウゴンオニユリ、スカシユリ、ハイビスカス、アガパンサスが咲いています。タカノハススキ(ホタルガヤ)の葉が涼しげです。我が家に、今日もアゲハチョウがやって来ました。
閑話休題、『哲学のヒント』(藤田正勝著、岩波新書)から、「死」について3つのことを学ぶことができました。
第1は、「パスカルの『気晴らし』」です。
「フランスの思想家パスカルの『パンセ』のなかに次のような言葉があります。<人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした>。この文章は、自分自身に向きあい、自己を直視すれば、必然的に自分の死、そして不幸、無知を見つめなければならなくなると、パスカルが考えていたことを示しています。自己に向きあえば、自己が死から逃れられないこと、つねにその不安にさらされていることを自覚せざるをえません」。
「パスカルは『パンセ』のなかでしばしば『気を紛らすこと』つまり『気晴らし』という言葉を使います。他に何もすることがなければ、自分自身を見つめるほかはありませんが、それは、恐ろしいことです。それを避けるためには、『気晴らし』に身を投じるほかはありません。・・・『気晴らし』は確かに一時的には『幸福』をもたらしてくれます。しかし『気晴らし』は、決して本当の意味での解決ではないとパスカルは言います。むしろそれは『不幸』だ、というように述べています。<われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである>。何も確実なものを手にすることなく死に至ることほど大きな悲惨はないと言うのです。パスカルは『パンセ』のなかでつねにこの問題と向きあっていたのではないでしょうか」。
これまで、あまり好きになれなかったパスカルだが、この部分を読み、親近感を覚えました。
第2は、三木清と谷川徹三の「哲学者」というものに対する考え方です。
「死の問題を考えたとき、私たちは自らの存在の不確かさを、そしてその根底にある無限の深淵を思わざるをえません。しかしメタフィジシァン(形而上学者)、あるいは哲学者というのは、その虚無が言わば底なしの虚無ではなく、そこに何かがあるに違いないと考えずにはいられない人のことだという谷川の洞察は、たいへんおもしろいと思います。哲学者の営みを巧みに言い表しています。そして三木はそのような意味でのメタフィジシァンの典型であったという谷川の言にも頷けるものがあります」。
「死」に真剣に向き合った三木と谷川は、真の哲学者と言えるでしょう。
第3は、「蓮如の『白骨の御文』」です。
「『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』という表現を踏まえてのことですが、蓮如の文章は『白骨の御文』とも呼ばれています。・・・蓮如の文章にはしばしば『白骨』という言葉が出てくるのですが、上座部仏教、つまり小乗系の仏教には『白骨観』と呼ばれる修行法があります。・・・死体が白骨になっていくのを観察することによって、人間の抱く愛や欲求の空しさを悟る修行法です。・・・人間という存在が、そして『自己』が本来『空無』であることを、具体的なものを通して徹見することが、その目的であると言えます」。
「人間の無常性、あるいは死を直視するところから出てきた答え、つまりいかにして老死の苦しみから逃れることができるのかという問いに対して出された答えが、原始仏教のいわゆる『縁起』思想であり、大乗仏教の『空』の思想であったと言えます。『縁起』というのは、『因縁生』、あるいは『因縁生起』とも言われますが、すべてのものは、さまざまな因(直接的な原因)や縁(間接的な原因、あるいは条件)によって成り立っているのであり、その因や縁次第でさまざまに変化する、つまり無常であるという考えのことです。言いかえれば、すべての存在は、それ自身の固定した実体性をもたず、ただ互いに他に依存しあいながら存在しているにすぎないということです。そのことが仏教では『無我』や『空』という言葉で表現されてきました」。
この解説は、仏教のキーワードである「無我」や「空」を理解するのを助けてくれます。
私は、哲学とは「死」にどう対処すべきかを考える学問と捉えているが、「『ソクラテスの弁明』でも、また『論語』でも、死は私たちがよく知らないことであり、それについて論じることはできないという考えが述べられています」というのだから、やはり、「死」は自分の頭で考えねばならない課題なのでしょうね。