榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

米国との戦争は絶対に避けるべきと考えていた海軍の米内光政・山本五十六・井上成美・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1930)】

【amazon 『井上成美』 カスタマーレビュー 2020年7月27日】 情熱的読書人間のないしょ話(1930)

カンナ、ハス、スカシユリ、スターゲイザー・リリー(写真8、9)、カノコユリ、キバナコスモス、アサガオ、ヒャクニチソウ(ジニア)、マリーゴールドが花を咲かせています。

閑話休題、『井上成美(せいび)』(阿川弘之著、新潮文庫)は、太平洋戦争終結の功労者にして、帝国海軍切っての知性派、徹底した合理主義のリベラリストと謳われた、最後の海軍大将・井上成美の評伝です。巻末に「資料談話提供者」として136人の氏名がずらっと挙げられていることからも分かるように、井上に関することは公私を問わず、可能な限り盛り込みたいという著者の意欲が漲っている一冊です。

「米英との戦争に対する井上の予見が極めて正しかったのは、戦後誰しも認めざるを得ない事実であつた。彼が『新軍備計画論』と題する建白書を海軍大臣及川古志郎大将に提出したのは、開戦の十ヶ月前で、『身も蓋も無い』井上の物言ひが公式の記録に残つた、今では名高い文書だが、その中に『日米戦争の形態』といふ一節があつて、此のまま対米戦争に突入した場合の見通しが書いてある。・・・要するに、自分の判断では負けるに決つたいくさだがそれでもやる気かといふのであつた」。井上は、職を賭し生命の危険を承知の上で意見書を書いたのです。

「二・二六事件の起きた昭和十一年以降、井上はいつも米内(光政)提督のよき脇役で、殊に大戦末期には、米内海相井上次官の組合せが、深い相互信頼のもとに、文字通り身命を賭し志を同じうして本土決戦回避戦争早期終結の道を拓いてくれるものと、身近な関係者皆、さう思つてゐた。ところが終戦三ヶ月前の五月十五日、米内はいやだと言ひ張る井上を無理矢理大将に進級させ、次官のポストからはづしてしまつた」。

「米内海相は譲れぬ最後の一線を日本の国体に置き、皇室をつぶすやうなことは絶対してはいけないとの意見だが、次官在任末期の井上中将は、将来の独立さへ保証されればたとひ相手が天皇統治の原則を認めないと言つても戦争をやめるべきだと主張してゐた。次官の考へ方に危険な要素があると、米内さんが思ひ始めた。それで切つたといふのが、もう一つの見方であつた。それはちがふ。米内さんの井上次官に対する信頼は終始渝らなかつた。二人の手で、やれる所までやり抜くつもりだつた。ただ、血圧が異常に高く、二百四十を越えてゐた。『俺はもうくたびれた』と言つて度々大臣の椅子を井上さんに渡さうとしたのも、現職海軍大臣に必要な心身の健康状態を保つて行けるかどうか、自信が持てなかつたからだ。・・・一方には暗殺の危険があつた。最悪のケースは米内井上二人が同時にテロに斃れた時で、さうなつたら誰があとのことを引き受けるか。『扼腕憤激、豪談の客も、多くはこれ生を貪り死を畏るるの輩』と、生前山本(五十六)元帥が言つてゐる通り、海軍敗戦の最高責任者といふ不名誉な役廻りを命がけで勤めてくれる人なぞ、簡単に見つかりはしない。米内さんがいやがる井上さんを無理矢理大将に仕立てて軍事参議官の閑職へ退けたのは、万一の場合の後継者候補、控への海軍大臣として残しておきたかつたのだ。その配慮が井上さんには通じてゐないやうだと言ふ人もゐた」。

インタヴューに答えた井上の肉声が伝えられています。<昭和十四年の、三国同盟をどうするかといふ時は、そのための委員会なぞ置かなかつた。鼻息の荒い若い課長連中には知らん顔で、かう決めたとも言はず、大臣の米内さんと山本(五十六)次官、それに私、この三人の責任において、三人だけで徹頭徹尾反対し抜きました。あの頃の海軍で大臣以上にしつかりしてゐたのは次官、それに輪をかけてはつきりしてゐたのが軍務局長と評してくれる人がありますが。事実さうでした。私の立場で自分の責任といふものを考へれば、しつかりせざるを得なかつた。これは、陸軍流の中堅幹部の下剋上と全然ちがひます>。<(日本海軍の本質を問われて)根無し草のインターナショナリズム。陸軍が、あれも俺の権限、これも俺の領分と、強欲で傍若無人だつたのに対し、海軍は、あれも自分の責任外、これも自分の管轄外と、常に責任を取るのを回避した>。<(あの戦争は負けてよかつたんだといふ意見に対し)それは負け惜しみです。冗談ぢやないよ。正確な数字は知らないが、三百万近い犠牲者を出してゐるんでせう。これをどうしますか。その人たちに死んでよかつたと言へますか。そんなこと言はれちや私は怒るよ。これだけの人の命といふものを勝手に奪つておいて、その償ひが何処にあるか。負けてよかつたといふやうな理論は、それは負け惜しみです。・・・何故こんな馬鹿な戦争をやつたか、真剣にその反省と研究をすべきだと思ひます。あの作戦は失敗だつたとか、此の戦争しくじつた、負けたとか、そのやうな簡単な問題ぢやないんだ>。

「井上さんの本質は教育者だつたと評する人がある。『用兵家として落第』の含みが覗へて、必しも讃辞とは取れないけれど、井上自身ある時期から、教育の仕事が一番自分に向いてゐるという自覚を持つたらしい。初めそれほど乗り気でなかつた兵学校長の職を、許されるなら何年でもやつていたいと言ふやうになつた。敗戦の一年前、懇望されて次官に就任し東京へ移つてのちも、『私を元の江田島の村長に帰して下さい』と、度々米内海相に訴へてゐる。人を育てることに興味が生じ、相当の自信が出来てゐたやうに思はれる。・・・要約すれば、自分が目ざしたのは兵隊作りではない、生徒をまづジェントルマンに育て上げようとしたのだといふことであつた。ジェントルマンの教養と自恃の精神を身につけた人間なら、戦場へ出て戦士としても必ず立派な働きをする。だから基礎教養に不可欠な普通学の時間を削減してはいかん。減らすなら軍事学の方を減らせ。英語の廃止なぞ絶対認めない。・・・『質問が一つあります』と、私(=阿川)は井上の話を遮つた。『それら一連の思ひ切つた措置は、あらかじめ敗戦後の日本といふものをお考へになつた上でとられたのでせうか』。いや、当時そこまで考へてゐた訳ではないといふ返事を予想した私に、<むろんそうです>。井上はきつい口調で答へた。<あと二年もすれば、日本がこの戦争に負けるのは決り切つてゐる。・・・負けたあとはどうするのか。とにかく此の少年たちの将来を考へてやらなくちやならん。皆で目茶々々にしてしまつた日本の国を復興させるのは彼らなんだ。その際必要な最小限の基礎教養だけは与へておいてやるのが、せめてもの我々の責務だ、さう思つたから、下の突き上げも上層部からの非難も無視して敢てああいふことをやりました>」。