榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ベートーヴェンは、生涯を通じて学び続けた人だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1936)】

【amazon 『ベートーヴェンとバロック音楽』 カスタマーレビュー 2020年8月2日】 情熱的読書人間のないしょ話(1936)

人がほとんど立ち入らない森で、カに刺され易いため完全防備したのに、20カ所以上も刺されてしまったと悲鳴を上げていた撮影助手(女房)が、カブトムシの雄を見つけました。スイカをたらふく食べさせた後、森に戻しました。アメリカフヨウ(写真5~8)、フヨウ(写真9~11)、マンデヴィラのローズ・ジャイアントという品種(写真12~14)が花を咲かせています。フヨウの花の直径は10cmほどだが、アメリカフヨウは20cmもあります。

閑話休題、私の好きなクラシック音楽家は、ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトです。ベートーヴェンの音楽を聴いたり、ベートーヴェンがモデルといわれるロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読み通したりしたのに、どうしてもベートーヴェンに親しみを感じることはできませんでした。

ところが、今回、『ベートーヴェンとバロック音楽――「楽聖」は先人から何を学んだか』(越懸澤麻衣著、音楽之友社)を読んで、ベートーヴェンの印象が変わりました。

「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827年)は『真の芸術』に値する『天才』として、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759年)とヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750年)の名前を挙げている。もちろん、それは単なる手本としてではない。彼らの音楽と自らの音楽との『芸術のよりよい統合』によって、芸術界の目的である『自由と進歩』を達成しようというのがベートーヴェンの狙いだった。つまり、ベートーヴェンはヘンデルやバッハのような『バロック音楽』から新しい音楽を生み出そうと、膨大な蔵書を誇る(パトロンの)ルドルフ大公の図書館で調べ物をしていたのである」。

「ベートーヴェンは、頭に浮かんだことをとにかく書き留める人だったようだ。彼が濃き残したスケッチは厖大な数にのぼる。そこには、どの曲へと発展したのかがすぐにわかるような戦慄から、ごく平凡な音階や分散和音のような音型まで、さまざまな楽想が記録されている。興味深いことに、そうしたベートーヴェンのオリジナルの楽想にまじって、他の作曲家の作品が書き写されたページがある。その中には、ヘンデルやバッハの作品も含まれている。わざわざ書き写す――この事実は、ベートーヴェンがとりわけその作品に関心を示した、さらに言えば、そこから何かを学び取ろうとした、ということを意味しているはずだ」。

「初期から晩年まで広い年代にわたってバロック音楽が筆写されていることがわかる。最初のものは1794年頃(23歳)、最後のものは1821年頃(50歳)に書かれたものである。一般的なイメージは、若い学習期に先輩作曲家の作品を書き写して学ぶ、というものだろう。しかしベートーヴェンの場合、晩年になってからも、つまりすでに一流の作曲家として名声を確立させたからも、ヘンデルやバッハの作品に立ち戻っているのである。とりわけ1817年頃、これらが集中的にスケッチ帳に書き写されている。中期から後期への作風の移行期にあたって、ベートーヴェンはそのヒントをバロック音楽に求めていたのであろう」。ベートーヴェンは、生涯を通じて学び続けた人だったのです。

「ヘンデルとバッハの音楽はベートーヴェンにとって生涯にわたって興味深い対象であり続けた。ヘンデルとバッハ、どちらがより重要だったかという問いは意味がなく、それぞれ異なる学ぶべきことがあったと捉える方が良いだろう。総じて、当時はバッハよりヘンデルの方が有名だった。あるいは人々に馴染みのある作曲家だったと言うことはできる。それでも、ヘンデルについてベートーヴェンが知っていたことはごく限定的であり、またバッハは20世紀の音楽史研究が強調したほどには忘れられていなかった。そうした音楽世界の中で、ベートーヴェンはヘンデルとバッハの音楽に向き合っていた」。

余談だが、ベートーヴェンは、戯曲・映画『アマデウス』でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~91年)の敵役にされたアントニオ・サリエリ(1750~1825年)からも作曲の指導を受けています。

ベートーヴェンが魅了され、スケッチ帳に最も多く書き写したバッハの「平均律クラヴィーア曲集」を聴きたくなってしまいました。