榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

105歳の美術家・篠田桃紅の風雅な嗜みが淡々と語られているエッセイ集・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1984)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月19日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1984)

コバネイナゴ(写真1~6)、ハネナガイナゴ(写真7~9)、アオバハゴロモ(写真10)をカメラに収めました。コバネイナゴ、ハネナガイナゴは、撮影後、放してやりました。

閑話休題、エッセイ集『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』(篠田桃紅著、世界文化社)では、105歳の美術家・篠田桃紅の風雅な嗜みが淡々と語られています。

「人は生きもので、死んだらそれまでです。仏教などでは、生まれ変わると信じられていますが、もし生まれ変わることがあるとしても、宇宙のなかの一つの現象。前に生きていたときとは全然関係なく生まれ、ああ再び会えてよかったでもなく、ああ懐かしい人だ、ということでもありません。なんの関係もなくなっています。魂というものが、新しい体を得たとしても、一切に関係がなくなっています。人そのものは、死んだらそれまでで何もない。いくらその人が立派な人であろうと、どれほど大きな国の王様であろうと。生きているあいだ、というものだけが、生きものの場で、なくなればもうそれで終わりだと私は思っています。ただ、使ったもの、文章に書かれていること、その人にゆかりのあった物質は残ります」。

「客人よ、琴を抱いて来たれ」は、こう綴られています。「中国古来の言葉に、『素琴一張酒一壺』があります。粗末な琴一張と酒一壺があれば私の心は救われる。さらにあなたが傍にいて歌えば、この世はまさに天国という意味です。人は、昔から音楽と酒で、苦悩をいなしてきたということが、この言葉からもわかります。素琴は、ウクレレのように手で持ってかき鳴らす昔の楽器で、革を張っていることから、一張り、二張りと数えました。唐代の大詩人、李白も酒と放浪をこよなく愛し、<一杯一杯また一杯、我酔いて眠らんと欲す。明朝意あらば琴を抱いて来たれ>という詩を書いています。世の中にくたびれて、うんざりして、人生は一張りの粗末な琴と一壺の酒、心に詩歌と音楽があればそれでいい。そんな彼の心境が表れています。私はこの詩が好きで、有田焼の陶板に『琴』の字を書いて、玄関で客人を迎えています」。李白のこの詩は、実にいいですねえ。

「未」と「半」という字が刻まれた、古い中国の瓦の版を写したリトグラフが掲載されています。「意味はいまだ半ばならず(まだ半分にも至っていません)。百歳のお祝い返しにつくった」。桃紅の洒落たセンスが秀逸ですね。

「ある夏の日のこと、(次)兄は白い雲を指して『雲の色がきれいだね』と私に言いました。亡くなったのは、それからしばらくしてからのことでした。・・・兄が亡くなったとき、私は銀座にいました。兄がくれた赤間関の硯を風呂敷に包んで持っていました。なぜかそのとき、不意に風呂敷が手から抜け落ちて、硯蓋が割れました。胸騒ぎを覚えた私は、その場で急いで帰宅しました。無事だった硯は、朱墨専用にして使っています」。

「無用の時間を持つ」は、こう記されています。「用を足していない時間というのは、その人の素が出ます。その人の実像は、何もしていない状態に表れます。でも、何かをやるときになったら、こういうこともできる、ああいうこともできる、という可能性を持っています。人は、いつも何かに対応しているというのでは、一種の機械です。ただ、何かの用を足しているにすぎません。無用の時間、用を足していない時間を持つことは、非常に大事なことだと思います。私は、毎年二か月ほど、富士山を望む山中湖で、無用の時間を過ごしています。定期的に過ごすようになったのは、山荘を持つようになったこの四十年あまりですが、戦前から、折に触れては山中湖を訪ねていました。自然のなかにいると、一杯のお茶を飲んでも、ああ美味しいと思えます。富士山が見えて、天地自然の動きを感じることができます。ありがたいことです」。

写真と文章が融合した、心洗われる一冊です。