榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

出雲大社、住吉大社、法隆寺に秘められた謎から分かったこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1987)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年9月22日号】 情熱的読書人間のないしょ話(1987)

女房の親友・岡田文子さんから、キジバトの雛のこの写真を撮った直後の、午前9時25分の巣立ちの瞬間を見逃してしまい残念と、写真が送られてきました。その後、近くの公園を2羽連れ立って歩いていたとのこと。恐竜たちに会ってきました。

閑話休題、『日本書紀に秘められた古社寺の謎――神話と歴史が紡ぐ古代日本の舞台裏』(三橋健編、ウェッジ)は、『日本書紀』に登場する社寺には日本の国の成り立ちと日本文化の真相の謎が秘められているという観点に立っています。

とりわけ興味深いのは、「オオクニヌシ王国の遺産 出雲大社――崇神朝の神宝事件が語る国譲り神話の真実」、「河内王朝の記憶 住吉大社――神功皇后伝説と王朝交替説の交点」、「斑鳩に出現した日本的仏教の原点 法隆寺――本当に聖徳太子が建てたのか」の3つです。

「(『日本書紀』の)大和に神宝を献上して服従する出雲という崇神朝の構図は、天つ神に広矛を献上して土地を譲るという国譲り神話と、おもしろいほどによく重なり合う。こうしたことからすれば、国譲り神話は出雲が朝廷の支配下に入ることを決定づけた出雲神宝事件をモチーフとしているのではないか、出雲神宝事件を大和朝廷による日本統治を正当化する説話としてデフォルメし、神話的に表現したのが国譲り神話なのではないか、という見方が妥当性を帯びてくる」。浅学の私は、出雲神宝事件を本書で初めて知りました。

「ドラマチックで神秘的な神功皇后伝説を批判的に読み解き、第14代仲哀天皇と第15代応神天皇のあいだにはじつは皇統の断絶があるのではないか、これを機に王朝交替が行われたのではないか、という見方がある。つまり、九州で出生した応神天皇が母・神功皇后とともに畿内の異母兄弟の反乱を制して皇位を継ぐという展開は、九州出身の豪族が畿内に攻めのぼって先帝の遺児であった2王を滅ぼして大和の旧王朝勢力を制し、河内・難波を拠点とする新たな王朝を勃興させたという史実を潤色したものではないか――という説である。応神朝あるいはそのつぎの仁徳朝をエポックとする王朝交替説は、昭和戦後以降、歴史学者の水野祐氏をはじめさまざまな学者が提唱してきた。細部には異なる点も多いが、共通するのは、大和の旧勢力に対抗して新たな王朝が難波・河内地方に起こったとすること、旧王朝と新王朝は血縁的には無関係だったが、後世になって系譜的に結びつけられたとすることの、2点である。王朝交替説は、住吉信仰の点からもある程度、傍証することが可能だ。・・・王朝交替説は確証されているわけではなく、あくまで仮説にすぎないが、記紀の天皇史のうえでは、応神朝(西暦にあてはめれば5世紀前半ごろか)が大きな画期をなしているのはまぎれもない事実である。その画期の巨大なモニュメントとなっているのが、住吉大社なのである」。私は若い頃から王朝交替説を支持してきたが、住吉大社との関係には気がつきませんでした。

「法隆寺の創建に関する重要な史料は、金堂本尊の釈迦三尊像の光背に彫られた銘文である。これによると、推古天皇29(621)年に聖徳太子の母が没し、翌年正月、太子とその后(膳菩岐々美郎女)が病に伏した。そこで太子妃や皇子たちが、病気平癒と浄土往生を願って釈迦像の造立を発願したが、2月には后も太子も相次いで世を去ってしまった。その翌年3月、止利仏師(鞍作鳥)の手によって釈迦像は完成したという。この銘文を信用し、さらに完成した釈迦像がほどなく法隆寺に本尊として安置されたとすれば、法隆寺の最終的な完成は推古天皇31(623)年ということになり、しかもそれは聖徳太子の没後ということになる。・・・このようなわけで、意外にも、文献史料からだけでは、法隆寺の創建年や聖徳太子との関わりを明確にすることはむずかしいのである」。私は、そもそも聖徳太子は実在しなかったという説を信じているので、大きく頷いてしまいました。

教えられることの多い一冊です。