サラリーマン兼昆虫カメラマンの撮影奮闘記・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1992)】
アキアカネの雄(写真1、2)、トノサマバッタの緑色型(写真3)、コバネイナゴ(写真4、5)、ツチイナゴの幼虫(写真6)、ショウリョウバッタ(写真7、8)をカメラに収めました。カマキリは胸部で種の確認ができるので、見ようとしたところ噛まれてしまったが、オオカマキリと分かりました。因みに、本日の歩数は11,292でした。
閑話休題、『オオカマキリと同伴出勤――昆虫カメラマン、虫に恋して東奔西走』(森上信夫著、築地書館)は、サラリーマン兼昆虫カメラマンの撮影奮闘記です。
「小人になりきり、その『小人目線』で昆虫の世界を仰ぎ見ると、原っぱはサバンナに、茂みはジャングルとなり、やがてカマキリが猛獣に見え、トンボが猛禽の力強さで迫ってきます。こうなればしめたもので、以後はなじみ深い場所や退屈な日常がとてつもなくドラマチックなものに見えてくるはずです。庭やいつの散歩道でさえ、見方が変われば野性味たっぷりの刺激的なミラクルワールドに生まれ変わる。自然を見つめる視座の中心に昆虫を据えるだけで、高価な海外ツアーと同じほどの興奮を近所の原っぱで味わえるのですから、こんなにおトクな話はないと思います」。
「オオカマキリと同伴出勤」には、こういう一節があります。「おなかがパンパンにふくれ、今にも卵を産みそうなオオカマキリのメスを一晩中見張っていたが、結局、朝までに産卵しなかった。しかし、このまま放っておけば出勤中に産卵してしまうのは確実と思えた。お産が済んだメスに再び産卵に必要なエネルギーを蓄えてもらうには、最低でも1週間はかかる。その間、撮影できるかどうか不安な気持ちのまま過ごすのは精神的にもしんどいと思った。締切のある仕事である。ぼくはその日の職場でのスケジュールを思い浮かべ、会議などの予定が入っていないことを確認した上で、オオカマキリをミニ水槽に入れて職場へ同伴させたのである」。
「(帰宅後)2時間待ち、そして3時間が過ぎた。今日もまた徹夜かと思ったそのとき、枝にさかさまに止まっていたオオカマキリのお尻から、真っ白い泡が噴出してきた。やった! 産卵開始だ。いったん撮影がスタートすれば、どんな濃厚な栄養ドリンクよりも効果的に眠気など吹き飛ばしてしまう。産卵終了までの一部始終をカメラに収め、ぼくは気を失うように深い眠りに落ちていった」。
「カナヘビを逃がす日」は、哀愁が漂っています。「(撮影のために1か月以上も一緒に過ごした)カナヘビを連れて、近所の自然公園に行った。覚えているかい? ここがきみのふるさとだよ。木道の上にそっと置くと、すぐに逃げようともせず、顔を上げ、ふり返ってぼくを見る。『わたし、このまま行っちゃってもいいの?』。解き放たれたことへのとまどいが、その仕草から伝わってくる。目の前に小さな枯れ葉が落ちてくると、飛びついてくわえた。違うよ。それは食べものじゃない。一目散に逃げようとしないで、ぼくの足もとで、普通に食事しようとしている。ぼくに、すっかり心を許している。かわいくて、涙が出た。もうぼくを見上げないでくれ。別れがつらくなるから。ほどなく、小さな姿は、風に揺れる草の間に見えなくなった。きびしい環境に、再び適応できるだろうか。どうか長生きしてほしいと祈った」。
「ファーブルよりシートン」では、著者の思いが吐露されています。「ぼくが昆虫の写真を撮るのは、世の人々に自分がこの世で一番すばらしいと思っているものへの共感をうながし、自分と同じように昆虫のファンになってもらいたいからであり、それには、あまり人に知られていない昆虫の魅力を、自分の作品を通して世間に吹聴したいという思いがある。・・・ぼくの使命は、専門書を作ることではなく、一般の人を魅力的な昆虫の世界に引っ張ってくることではないかと思う。ファーブルよりシートンを愛読し、生きものを擬人化することが好きだった少年のごく庶民的な感性は、昆虫を科学の文脈から解き放ち、一般の人の感情に訴えることで、新たな昆虫ファン開拓につながる何かをきっと生み出せるのではないかと思っている」。
フィルムカメラ時代に苦労して撮影した「アブラゼミのおしっこ」が掲載されています。「フィルムカメラでは何百枚撮影しても、成功したかどうかその場では確認できない。不安のあまり、10本以上のフィルムを使ってしまうこともあった。当時、フィルム1本の価格と現像料金は合わせて1500円以上にもなったので、泣きながら連写したことを思い出す」。
私も毎日、趣味で昆虫を撮影しているが、仕事での撮影とは大違いであることを思い知らされました。