榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

万葉和歌の基層には、中国・雲南の少数民族の歌垣の習俗があるという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2002)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年10月7日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2002)

モズの雄(写真1、2)、アキアカネの雌(写真3~5)、雄(写真6~8)、シオカラトンボの雄(写真9)をカメラに収めました。あちこちで、ショウキズイセン(ショウキラン、リコリス・トラウビ。黄色)、シロバナマンジュシャゲ(白色)、ヒガンバナ(赤色)が咲き競っています。カシワバアジサイが紅葉しています。

閑話休題、『万葉集の起源――東アジアに息づく抒情の系譜』(遠藤耕太郎著、中公新書)から、新たな視点を与えられました。

「私は1997年より中国雲南の少数民族の村に入り、彼らの歌文化の調査を続けている。彼らは声の歌を豊富に持っている、老若男女が集まり、恋歌を掛け合う歌垣的習俗では数時間に及ぶ恋歌があちらでもこちらでも掛け合わされる。なかには歌垣で知り合い、結婚に至った人もいる。また、数日間にわたる喪葬儀礼では、夜を徹して、死者を送る歌と死者を呼び戻す哭き歌が交錯し合った。私は、こうした生の掛け合いの歌や喪葬歌をビデオで撮影し、資料化することを長年行なってきた」。

「彼らの歌には、文字を持たない人々が、自らの心の機微や揺れのようなものを表現する工夫や技術がある。心の機微や揺れとは、たとえば愛し合う男女がふと感じる喜びやいとおしさや不安、死者を哀悼するなかで感じるさみしさや怒りや死への恐れといった感情である。彼らの歌を資料化していくなかで、雲南少数民族の人々が心の機微や揺れを表現する工夫や技術は、万葉和歌の抒情表現の工夫や技術と連続していると思うようになった。本書ではそういう心の機微や揺れを『抒情の原型』と捉え、そこから『万葉集』の『抒情』のあり方を捉えてみたいと考えている」。万葉和歌の基層には、東アジアに広がる声の歌があるというのです。

「『万葉集』や『風土記』は、8世紀の日本で『歌垣』という行事が行なわれていたことを記している。筑波山では足柄峠より東の諸国の男女が春秋2回集まって歌垣をした。肥前国の杵島岳にもたくさんの男女が集まって歌垣をした。歌垣とは男女が恋の歌を掛け合う行事だが、そこに集まったのはたくさんの庶民であり、掛け合わされた歌の多くは、文字によらない声の歌だったろう」。

「1970年代、中尾佐助らが提唱した照葉樹林文化論は、東南アジア山岳地域や中国雲南を中心として、西はベトナム北部、ブータン、ネパール、チベット、インド・アッサム地方へ、東は長江南側の山地を経て日本へ至る照葉樹林地帯には多くの文化的共通性があり、その一つに歌垣的習俗があることを教えてくれた」。

「『万葉集』は、生者であれ死者であれ、人を恋しいと歌う歌を集めた歌集である。その歌は文字で書かれた歌として、人の心を動かす。だが、こういう抒情のあり方は、書かれた歌が発明したものではなく、それ以前の声の歌のなかで徐々に形成されてきた、まだ抒情とは呼べないような期待や不安や恐れや喜びといった抒情の原型のようなものを表現する技術を継承しつつ、そこから飛躍したところにある」。

「恋歌も喪葬歌も人を恋しいと歌う。そういう声の歌の技術のなかに、私たちの抒情の原型は胚胎した。それは国家成立以後の書かれる歌、つまり『万葉集』やそれ以降の勅撰和歌集に継承されて深化し、現代に連なっている」。

私たちが人を恋しいと歌い続けるのはなぜかを考えさせる、知的好奇心を掻き立てる一冊です。