榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

明智光秀を褒める織田信長、家臣の諫言を歓迎した武田信玄、火縄銃を複製させた種子島時堯・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2009)】

【amazon 『戦国武将の叡智』 カスタマーレビュー 2020年10月14日】 情熱的読書人間のないしょ話(2009)

私の残り少ない人生で、アサギマダラに出会うチャンスには二度と巡り合えないだろうと思うと、居たたまれなくなって、今日も、昨日と同じ時刻に、同じ場所に行ったところ、昨日のアサギマダラの雄がふわふわと舞いながら、私に近づいてくるではありませんか。私の気持ちが彼に通じたのでしょうか。彼の長距離の渡りの成功を祈らずにはいられません。ショウキズイセン(ショウキラン、リコリス・トラウビ)の花が見頃を迎えています。ヘチマの花と実を写そうとしたら、庭仕事中の女性が、ヘチマは食べることもできるんですよと、わざわざ切り取り手渡してくれました。ムベの実も添えてくれました。近くの農家の庭先で、穫れたてのオオマサリという品種の落花生を購入しました。普通の落花生と並べると、かなり大きいことが分かります。茹でて食べると美味です。

閑話休題、『戦国武将の叡智――人事・教養・リーダーシップ』(小和田哲男著、中公新書)を読んで、とりわけ印象に残ったのは、「褒める信長と『パワハラ』の信長」、「諫言を歓迎した信玄」、「火縄銃の複製に成功」の3篇です。

信長――。
「褒めて、部下を上手に使った武将として取りあげたいのが織田信長である。信長の発給文書の中に、部下の働きを称讃したものが何通かある。ここでは、明智光秀を褒めた文書を紹介しておきたい。まず、1通目は天正2(1574)年と推定される7月29日付光秀宛信長墨印状である。・・・戦いの状況がくわしく書かれ、信長自身、『眼前に見る心地がする』と、光秀からの(戦況)報告に満足し、褒めている様子が描かれている。・・・光秀が、信長からその能力を高く買われていたことがわかる」。

「(天正)8年8月、光秀はまた信長から称讃されているのである。・・・信長にしてみれば、光秀・秀吉の働きぶりに対し、佐久間父子の働きがどうも腑甲斐なくみえ、8月に、佐久間父子を高野山に追放し、十九ヵ条の折檻状を認めているのである。注目されるのは、その第三条で次のように記している点である。・・・これをみてもわかるように、信長は光秀の丹波平定を絶讃していた。光秀を織田家臣団随一の働き頭をみていたことはまちがいないように思われる」。

「では、そんな光秀に対し、信長が『パワハラ』にあたる行動を取ったのはなぜなのだろうか。絶讃と『パワハラ』は矛盾するように思われる。これに対する答えは簡単ではないが、信長の性格的なものが根底にあり、他人からの批判や諫言を受けいれず、それは、働き頭の光秀からの批判や諫言に対しても同じだったと思われる。光秀を褒めて使い、その能力を引き出すことには成功したが、光秀からの苦言には耳を貸そうとしなかったのではなかろうか」。こういうことが、本能寺の変の原因の一つになったのかもしれません。

信玄――。
「信玄のまわりには、この(馬場)信房のように、諫言できる家臣がたくさんいたわけで、また、(武田)信玄自身も諫言を受けいれる度量があったことになる。どうしても、ある程度偉くなると下の者の意見に耳を貸さなくなりがちである。『聞く耳をもたない』といったいい方をされるケースが多くみられる。信玄はその逆であった。永禄11(1568)年12月13日の駿府今川館攻めのときの馬場信房の諫言が効いたのか、その後、信玄は家臣の諫言に耳を貸している。信玄が日常話している言葉が『甲陽軍鑑』にいくつか採録されている。・・・信玄は、『自分と同じ考えの者ばかりをまわりに置きたくはない』といっているわけで、さしずめ、今風ないい方なら、『イエスマンばかりに取りまかれるのはご免だ』ということになろう。どうしても、耳の痛いことばかりをいう家臣を遠ざけ、耳に快いことをいう家臣を身のまわりに置きたがるが、『それはだめだ』と信玄は考えていたことになる。諫言がいえる家臣を忠臣とすれば、胡麻をすってばかりいる家臣は寵臣といってよい。実際、寵臣に囲まれた戦国大名は例外なく没落しているのである」。現代の組織にも通用する教訓ですね。

火縄銃――。
「鉄砲伝来についての通説は、天文12(1543)年、ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が、九州南方の種子島に漂着し、そのポルトガル人が持っていた鉄砲を、島主種子島時堯が買い取ったというものである。・・・鉄砲を持ったポルトガル人を引見した種子島時堯は、その鉄砲に興味を示し、実際に鉄砲を撃たせ、高価で2挺を買い取ったことが『鉄砲記』に記されている。注目されるのは、その後の時堯が取った行動である。何と、城下の鍛冶師八板金兵衛に、1挺を分解し、複製することを命じているのである。ふつうに考えれば、高い値段で買ったものなので、秘蔵して当然であろう。年配者だったらそうしたかもしれない。ところが、時堯はこのときまだ16歳の少年領主だったのである。少年らしい好奇心で『分解してみろ』といったのかもしれない。ある意味、この好奇心が歴史を変えたといってよい」。

「複製に成功した鉄砲製造法はその後どうなったのだろうか。時堯が製造法を秘匿してしまっていれば、やはり短期間に普及することはなかったはずだからである。『鉄砲記』によると、この鉄砲製造物がいくつかのルートで伝播したことがわかる。・・・同時進行の形で西日本の各地に伝わったと思われる。鉄砲は筒の部分は比較的単純だが、引き金の部分は複雑なカラクリがある。それをまたたく間にまねして作ってしまったわけで、すでに戦国日本に、それだけの技術を受容する素地というか、条件があった点も見のがせない」。鉄砲の普及がよいことかはさておき、好条件が重なって、鉄砲は短期間のうちに広まっていったのです。