榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

蘇我入鹿が暗殺されても、蘇我氏は滅亡していなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(316)】

【amazon 『蘇我氏の古代』 カスタマーレビュー 2016年3月9日】 情熱的読書人間のないしょ話(316)

千葉・鎌ケ谷を巡る里山散策会に参加しました。鎌ケ谷八幡神社には100基もの庚申塔がずらりと並んでいて、壮観です。清長庵の境内には、正徳5(1715)年の銘のある道路地蔵がありました。同じ境内の如意輪観音にミカドトックリバチが巣を作っています。明治中頃に建てられた旅籠丸屋は、木下(きおろし)街道の鎌ケ谷宿の往時の賑わいを偲ばせます。鎌ケ谷にはナシ園がたくさんあります。その隣には、ウメの林が広がっていました。昆虫に造詣の深いメンバーから、ムーアシロホシテントウ、アカボシテントウに擬態しているヘリグロテントウノミハムシ、ウリハムシ、ヨコヅナサシガメの幼虫について教えてもらいました。植物に詳しいメンバーからは、フラサバソウ(ツタバイヌノフグリ)、ヒメオドリコソウのことを学ぶことができました。因みに、本日の歩数は18,037でした。

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閑話休題、『蘇我氏の古代』(吉村武彦著、岩波新書)は、時の最高実力者・蘇我蝦夷の息子・入鹿が大化改新(646年)直前の乙巳の変(645年)で中大兄皇子(天智天皇)、中臣(藤原)鎌足らによって暗殺され、翌日、蝦夷が自殺したことで、蘇我氏は滅亡したと思われているが、それは誤りだと指摘しています。

確かに、6世紀初めに誕生し、満智―韓子―高麗―稲目―馬子―蝦夷―入鹿と続いてきた蘇我氏本宗は滅亡したが、入鹿の従兄弟に当たる倉山田石川麻呂は大化改新後、右大臣となっており、さらに、天智朝では入鹿の従兄弟・連子が大臣を、大友皇子の政権では入鹿の従兄弟・赤兄が左大臣を務めるなど、傍系は活躍したというのです。「ただ、改新後も群臣として働いた蘇我氏は、天智没後から壬申の乱にかけて、天智の子である大友皇子側についていた。そのため乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)即位以後は、『蘇我氏』として歴史の表舞台に出ることはほとんどなくなった。こうした経緯もあって、天智朝と大友皇子の政権における蘇我氏の活躍は以後評価されなくなり、全体として蘇我氏逆賊説がひとり歩きするようになったのではなかろうか。その後の時代においては、『蘇我』の氏名(うじな)を改姓した『石川』氏が活躍するようになる。いってみれば、『蘇我』の名前は忌避されたのである」。

注目されるのは、満智、韓子、高麗という渡来系移住民を思わせる名前にも拘らず、「諸事情を考えあわせると、蘇我氏が、韓の地や高句麗から来た移住民ということは考えにくい」と、著者が断言していることです。

また、蘇我氏傍系の倉山田石川麻呂の娘たちから持統天皇、元明天皇という女性天皇が生まれていることも、注目に値します。

蘇我氏が権勢を誇った時代の「蘇我氏の特徴として、娘を天皇に嫁がせ、外戚の地位を保持したことがあげられる。・・・娘をキサキとし、状況が整えば、生まれた男子を即位させる。蘇我氏の場合、これらを継続的に行なっていた」。

蘇我氏の後に権力の座に就いた藤原氏も、蘇我氏同様、外戚戦略を採用したことはよく知られています。同じ外戚戦略をとりながら、蘇我氏は衰退してしまったのに、一方の藤原氏が長期に亘り権力を持続できたのはなぜか。この興味深い設問に対する解答に、本書の後半部分が割かれています。