「自由からの逃走」を図り、実家のある戸越銀座に戻ってきた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2032)】
ツバキ(写真1~4)とサザンカ(写真5~9)はよく似ているが、葉を太陽に透かしてみると、ツバキは葉脈が明瞭に見え、サザンカは不明瞭なので、簡単に見分けることができます。サザンカの花に、獲物を狙うワカバグモの雌(写真6、7)が潜んでいます。ベニヒモノキ(写真10、11)の花が風に揺れています。ホトトギス(写真12)、アサガオ(写真13、14))も頑張っています。モミジバフウ(写真15)が紅葉しています。
閑話休題、エッセイ集『戸越銀座でつかまえて』(星野博美著、朝日文庫)は、著者の「自由からの逃走」の記録です。
「私はフリーランスで原稿を書き、たまに写真を撮り、生計を立てている。・・・私はいまも独身である。故郷は東京都品川区の戸越銀座という下町だ。そこの町工場の三女である。・・・私は就職を機に実家を離れ、ほとんどを東京西部の中央線沿線で暮らした」。
「世間からますますズレていくという悪循環に陥り、ふと気づけば三〇代も終盤にさしかかっていた。選択は可能だが自らの意志で選択しないのだと言い聞かせていた選択肢、たとえば『家庭』や『出産』は、次第に選択不可能の域に入りつつあった。自分はたった一つ、『自由』という小さな選択をしただけのつもりだった。しかしこの『自由』というやつはものすごく強欲で、ストーカーのように執念深い怪物だ、ちょっと楽しそうな出来事が現れるたびに『俺とあいつのどっちが大事なんだ!』とわめき散らし、『おまえは最後には俺のところに戻ってくるよな』と耳元でささやき続ける。それにすっかり洗脳され、楽しみや喜びが罪悪のように感じられる。自由という名の暴君が、人生を食いつぶし始めたのである」。
「ぐずぐずしているうち、しまいには腰痛を発症し、物理的に生活が成り立たなくなった。自由、独立、自分らしい生き方、創造性、作品、表現・・・。もはや、そんなことを言っているレベルではなかった。もう無理だ。逃げよう。自由の魔の手が及ばない、どこか遠いところへ。その時初めて、『実家』という選択肢が頭に浮かんだ。・・・一三歳のめす猫『ゆき』を連れて実家へ戻ったのは、二〇〇七年一月三〇日のことだ。その日は、雪がちらつくとても寒い日だった」。
「本書は、生き方を見失った私が、何かを取り戻すため、実家のある戸越銀座に帰ったところから始まる。何かをつかまえることはできるのだろうか。それとも、また何かを失うのだろうか。それは私にもわからない」。この開き直りは、いかにも星野博美らしいですね。
「ストライキ」では、著者の持論が展開されています。「生まれて初めて親しむ線路によって、その人間の世界観はおおむね作られる。その鉄道を基準鉄道と呼び、駅を基準駅と呼ぶ。誰も賛同しないかもしれないが、私の持論だ。その線路はどこから来てどこへ向かうのか。線路の先にはどんな世界が広がっているのか。その駅で誰を見送り、どんな別れがあったのか。自分はそこから『去る』側なのか、それとも『去られる』側なのか。最初に出会った鉄道や駅が、子どもの世界観を形成する。・・・私にとっての基準鉄道は三両編成の東急池上線であり、基準駅は戸越銀座駅だった。線路の行く着く果ては、見知らぬ世界でも何でもなく、五反田と蒲田。駅で人を見送るのは家族がどこかへ出かける時で、しかも彼らは夜には家に戻ってきた。ロマンのかけらもない」。著者の持論に賛同する私の基準鉄道は中央線で、基準駅は荻窪駅です。
「健康センターの小宇宙」では、著者の人間観察の目がきらきらと輝いています。「(健康センターでは)きっと男の人は、ふだん社会や家庭で背負っているものが大きすぎて、そこから外れた時の開放感が大きいのだろう。一年くらい前から注目している男の人がいる。多分四〇代後半くらいのサラリーマンだろう。その男性に興味を惹かれたのは、自分を思いきり解放している男性たちとは対照的に、あまりに会社生活を引きずっているように見えたからだった。スーツを着慣れたせいか、Tシャツと短すぎる短パンから出た手足は青白く、マシーンを使うたびにポケットからボロボロになった紙片を取り出し、その日に自分が達成した成果を小さな字でびっしり書きつけていく。めちゃくちゃ出世するタイプではないだろうが、きっと会社では真面目一徹で通っているのだろう、と想像した。その必死さがなんだか痛々しく、『もっと自分を解放してもいいんですよ』と言ってあげたくなる。周りをご覧なさい。みなさん、呆れるほど自分を解放していますよ。自転車をこぎながら始終そんなことを考えている自分もまた、全然解放されてなどいないのだが」。
「コーヒーショップでたびたびその男性を見かけるようになったのは、それから間もない頃だ。朝会うこともあれば夕方会うこともある。いつも電子辞書を片手に英語の勉強をしていた。・・・私がその人に注目し始めたのが約一年前。多分彼はリストラされて運動を始め、コーヒーショップで勉強するようになったのだろう。かつてその人に対して『出世できるタイプではない』という感想を持った自分が恥ずかしくなった。がんばれ、おじさん。他の誰が見ていなくても、あなたのがんばりを私は知っている」。
同期会が舞台の「見えない檻」は、ちょっぴりだけ、松本清張の短篇を思わせます。「かつて私は彼女たちを敵視していた。既得権益者たちの間だけで富がぐるぐる循環している、と。彼女たちを仮想敵にして、自分の立ち位置を決めているところがあった。そしていまもなお、彼女たちは娘に『お受験』をさせて同じ学校に潜りこませ、既得権益を死守しようとしている。しかし卒業して四半世紀が経過し、生き方や価値観がもう後戻りはできそうにない年齢になると、腹が立つより『大変だなあ』という同情のほうが強くなった。彼女たちは、一部は幼稚園から大学まで同じ人間関係の中で暮らし、いまは娘を媒介として競争を続けている。学生の時は親の社会的地位や財産、結婚すれば夫、子どもを産めば子どもと、自分そのものではなく、自分の付属物の価値を競いあう。外にはもっと広い世界があるのに。早いところ闘いから降りたほうが楽なのに。彼女たちが透明な檻の中で羽根をばたつかせ、傷つけあっているように見えた」。
「時代も街も変わってゆく。もちろん自分も変わってゆく。いまの日常がいつまで続くかはわからない。この先も、何度も転ぶだろうし、立ち上がれないと思う日も来るだろう。しかし先のことを心配しても始まらない。弱さを否定するのではなく、かといって『これでいいのだ』と開き直るわけでもなく、多少の後ろめたさは抱えながら、変わることを恐れず、おどおどと進んだり退いたりすること。簡単ではないが、これからはそんな風に生きてみようと思っている」。
星野博美は読ませるなあ。