榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ドラキュラことヴラド三世、チェーザレ・ボルジアの父・アレクサンデル六世の真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2037)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年11月11日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2037)

あちこちで、コウテイダリア(キダチダリア。写真1~5)が咲き始めています。モミジバフウ(写真6、7)、イロハモミジ(写真8、9)、オオモミジ(写真10)、ノムラモミジ(写真11)、ユリノキ(写真12、13)、トチノキ(写真14)、ラクウショウ(写真15)が紅・黄葉しています。因みに、本日の歩数は12,860でした。

閑話休題、『「悪」が変えた世界史(上)――カリグラからイヴァン雷帝、ヴォワザン夫人まで』(ヴィクトル・バタジオン編、神田順子・田辺希久子・松永りえ訳、原書房)では、人間の暗黒面を代表する歴史上の人物10人が登場します。

私にとって、とりわけ興味深いのは、ドラキュラことヴラド三世、チェーザレ・ボルジアの父・アレクサンデル六世の2人です。

ヴラド三世――串刺し公(1430頃~1476年)――。
「ヴラドの出自は、ドナウ川の北、現ルーマニアの小さな公国ワラキアに君臨していた旧家、バサラブ一族である。・・・ワラキアの正教徒君主(ヴォイヴォダ)は、カトリック教徒であるハンガリー国王とオスマン帝国のスルタンの圧力を受け、自主的な政治を遂行する手段を欠いていた。ハンガリー国王には封臣として臣従していたし、スルタンには年貢を支払っていた。ヨーロッパ侵略を狙っているオスマン勢に対してハンガリーは執拗な抵抗でこたえていたので、ワラキア君主は2つの勢力の板ばさみとなり、風向きしだいで一方を裏切り他方になびいていた」。

「ヴラド三世の名で統治をはじめた新ワラキア公は、まだ26もしくは27歳の若さであった。・・・(国内の敵対勢力の)捕虜全員を女ともども――母親である場合は子どもを胸にくくりつけた状態で――串刺しするように命じた。・・・(敵対勢力の)周囲の村々を残らず焼きはらい、捕らえた農民を串刺しにした杭を林立させた。この遠征の最中に、ヴラドはならんだ杭のすぐそばにテーブルを運ばせ、グラスを片手に、瀕死の者や死者の姿を賞翫しながら食事を楽しんだ、といわれている。・・・自分に忠誠をつくす親衛隊に囲まれたドラキュラ公は、こうして恐怖を手段にワラキアに君臨した。そして、めったやたらに串刺しにしたことで、ツェペシュ(串刺しにする者)というおそろしい添え名を獲得した」。

「(オスマン帝国の)メフメト二世の注意を引いたのは城壁に囲まれた町そのものではなかった。スルタンの軍が進む道は、串刺しの森のなかを通っていた。長さ3キロ、幅1キロにわたり、串刺しで果てた何千人もの死体が林立していたのだ(串刺しにされたのは、冬のオスマン領内侵攻のさいに生け捕りにしたオスマン人)。オスマン帝国のある年代記作家は次のように記した。『およそ2000人の男、女、子どもが長い杭に串刺しされていた、といわれる。オスマン兵にとって、そしてスルタンその人にとっても、すさまじい光景であった! スルタンさえも茫然自失し、これほどのことをしでかす男はこんな小さな公国に似つかわしくない、と舌を巻いた。そしてほかのオスマン人たちは、串刺しにされた大勢の者の姿を見ておそれおののいた。母親にくくりつけられたままで串刺しにされた幼い子どももおり、彼らの裂けた胸郭のなかで鳥が営巣していた』と記した」。

ボルジア家のアレクサンデル六世――不品行をきわめた教皇(1431~1503年)――。
「アレクサンデル六世は生粋のカタルーニャ人で、13世紀末にボルハを離れ、レコンキスタ(キリスト教国によるイベリア半島の再征服)によって解放されたバレンシア近郊のシャティバに移住した家系に属している。野心的なこの一族は、数世代のうちにアラゴン王の側近にまでのぼりつめ、一族最初の教皇、カリストゥス三世をサン・ピエトロの玉座にのぼらせた」。

「(カリストゥスの死後)一人ローマに居残ったのは、カリストゥスの甥で、教皇庁ですでに重きをなしていたロドリーゴ・ボルハ(1429年、教皇マルティヌス五世の勅令によりボルジアと改名)だった。伯父の教皇はロドリーゴをボローニャに送って法律を学ばせ、枢機卿に任命し、25歳でヴァチカンで教皇に次ぐ地位、教皇庁財務部副院長に登用した。・・・ローマでの評価は高く、外交官、法律家、官吏としての資質が高く評価されていた。くわえて副院長という地位ゆえに、利権を分配したり、大修道院からの収入をばらまいたりすることもできた。こうしたことには神経を使うものだが、ロドリーゴは驚くほどの用心深さをもってやってのけた。そしてそれと同じ慎重さで、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェといった油断のならない隣国をけん制しつつ、ヨーロッパの主だった宮廷との関係をとり結んだ」。

「数々の栄誉を手にしつつも――その実力はだれもが認めていた――唯一の欠点は私生活がかなり複雑で、目にあまるものだったことだ。・・・あまたの愛人がいて、だれがだれやら見分けがつかないほどだった。・・・こうした私生活でのもめごとがあっても、1492年の教皇選出をいささかもさまたげることはなかった。そのため61歳のロドリーゴは、恥ずかしげもなく聖職を売りさばく人物との評判を得ることになる。つまりカトリック倫理において最大の罪とされるシモニー(聖職売買)と断罪されたのである。教皇選挙での多数派工作にあたって、ロドリーゴは40年も副院長という要職についていたことから、カトリック教会における最高のポストを約束することができた。・・・彼の治世をじかに見聞きした人々の見方はもっと複雑で、ロドリーゴが教皇となってからは、まったくちぐはぐで矛盾に満ちたものとなっている。一例として、彼の同時代人であるフィレンツェの歴史家グイチャルディーニは、こう語っている。『なみはずれた繊細さと聡明さをもち、見識にすぐれ、驚くほど説得力があり、どんな重要問題にもおそろしく熱心かつ巧みに対処する。ところがこれらの美徳も悪徳にははるかにおよばない。品性卑しく、誠意も羞恥心もなく、正直さも信仰もなく、あくなき貪欲、はてしなき野心、野蛮人のような残忍さをもつ』。一方で、最大の政敵たちでさえも彼の信仰心を認めていたし、彼がカトリック教会、ことに財政の建てなおしに熱しだったこと、またオスマン帝国の脅威をおそれ、十字軍の派遣をくりかえしくわだてたことも確かだった」。

ロドリーゴの長男・チェーザレは18歳で枢機卿になっています。

「殺人についてはどうだろう。ボルジア家はこの道に長けていたとされ、父と息子で方法が異なっていただけである。息子は剣、父は毒を使った」。

思わず溜め息が漏れてしまいました。