榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

伊達政宗の直筆書状から切迫感、安堵感がひしひしと伝わってくる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2039)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年11月13日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2039)

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閑話休題、『古文書が語る東北の江戸時代』(荒武賢一朗・野本禎司・藤方博之編、吉川弘文館)に収められている「古文書は語る――伊達政宗の手紙から」は、歴史好きには堪らない内容です。

天正18(1590)年6月9日、小田原攻め中の豊臣秀吉に初めて謁見した伊達政宗が、領国の重臣、家臣に宛てた直筆書状から切迫感、安堵感がひしひしと伝わってくるからです。この時、秀吉は55歳、政宗は24歳でした。

謁見当日の正午に、伊達成実(しげざね)に宛ててしたためた書状は、このような内容です。「今日9日午前10時ごろ、関白(秀吉)様の下へ伺候したが、事が全てうまく運んで何も言うことはない。関白様直々の御懇意は言葉に言い表せないほどである。これほどまで懇切なもてなしを受けようとはそなたも想像できなかったであろう。よって、明日10日に茶の湯に招待され、明々後日は黒川へ帰国を許されることになった。奥州54郡の仕置きも大方こちらの希望どおりに整いそうである。みんなもきっと満足するであろう。この手紙の写しを方々の関係者に送ってほしい。何とも急いでいるので、早々、恐々謹言」。追伸で、「忙しいので、送り先を記した日記(名簿)を添える。これらの人々にこの手紙の写しを送り届けてほしい。このほかいろいろ懇切なもてなしを受けたが、書面には書き切れない。以上」。

「この手紙の内容を見ると、ともかくものすごく急いで書いているということが伝わってきます。・・・奥州で心配している家臣たちを一刻も早く安心させたい、無事だということを知らせたい、という政宗のはやる気持ちが筆跡によく表れています。最初は淡々と書いているのですが、徐々に気持ちが高ぶってきて、文字も本当に踊っているような感じがします。この手紙を書いたのが9日の正午です。ところが、秀吉に会いに行ったのは、1行目に書いてあるように午前10時です。午前10時に秀吉に呼ばれて会いに行って、どれくらい秀吉と会っていたか正確には分かりませんが、無事に謁見を終えて戻ってきて、この手紙を書いたわけです。ですから、この間2時間しかないのです。急いで戻ってきてこの手紙を書いたということは、この刻付(手紙を書いた時刻)を見ただけでも分かります」。

「政宗が心配している家臣たちに、いかに早くこの手紙を届けようとしたか、受け取った成実には分かったはずです。それが家臣たちに対する主君政宗の誠意だったことも。こういう政宗の心の動きが筆跡に表れ、相手の心に伝わる。政宗は生涯、手紙は自筆で書いてこそ相手に伝わるということを実践した人です。自筆で書いてこそ伝わる心、そういうものを大切にした人だと私は思っています」。

「結局、何とか無事に謁見を終え、命も助かりました。そして、何よりも、秀吉のもてなしが極めて丁重だったということがこの手紙からうかがえます。政宗には予想外のことだったかもしれません。10日には茶の湯に誘われ、『明々後日には黒川に戻っていい』と言われたと書いているのですから、本当に安心したという感じでしょう。そういう政宗の心の内がよく分かる手紙です」。

上記の書状から5日後に、領国の家臣(氏名不明)に宛てた書状には、こう書かれています。「今月3日の書翰、今日14日に相模国藤沢で拝読した。ありがとう。一つ、去る5日に小田原に着陣し、9日午前10時ごろに関白様の下へ出仕、10日朝には茶の湯に招待され、数々の名物を拝見した。中でも天下に三つともないという御刀・脇指まで直々ご説明賜った。その他さまざまな御懇意、言葉には言い表せない。さて、休息として帰国を許され、今日小田原から藤沢へ着いた。24、25日ごろには黒川へ帰れるだろう。奥州54郡・出羽12郡全て、関白様の仕置きが下った。会津の件は前に関白様の仰せがあったので、今後関白様の御蔵所(直轄地)とされることになった。万事、直接会ってゆっくり話をしたいと思う」。追伸は、「花押を少し書き間違えた。手直ししたが、どうだろう。まずはご覧の通り」。

「この手紙を見ると、全体として秀吉との謁見を無事に終えた安堵感のようなものが現れています。まず、筆跡がだいぶ落ち着いていることが分かります。字の大きさも大体同じです。前の手紙のように大きくなったり小さくなったりしておらず、淡々と筆を運んでいる感じです。この筆跡を見ただけでも安堵感が伝わってくると思います。おそらく政宗のことを心配した家臣の一人が手紙を出したのでしょう。それをちょうど政宗が小田原を発って藤沢に着いたときに受け取ったわけです。それで、この返事を書いたのです」。

「政宗は筆まめな人で、戦国武将の中でも際立って数多くの自筆の手紙を書いています。・・・政宗という人は手紙をコミュニケーションの手段として大切にした人です。家族や家臣、友人に宛てた手紙からも、それがうかがえます。交友関係の広さも手紙を通して築き上げていったような気がします。武将だけでなく、皇族や公家、僧侶といった人たちとも政宗は親交がありました。幅広い人脈を築いていたのです。人脈が広いということは、豊かな情報を得られるということです。豊かな情報が政治力、外交力となることは昔も今も変わりません。戦国動乱から近世秩序社会へと移行する転換期を生き抜く上で、それは政宗にとって大きな力となったのではないかと思います」。

政宗に親近感を覚えてしまいました。