「理想のパソコンをつくる」という夢を追い求めた男の波瀾万丈の人生・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2050)】
高い治療実績を誇る日本有数の基幹病院の待合室の書棚に、『誤診』という本が並んでいるではありませんか。
閑話休題、『反省記――ビル・ゲイツとともに成功をつかんだ僕が、ビジネスの“地獄”で学んだこと』(西和彦著、ダイヤモンド社)は、3つの点で読み応えがあります。
第1は、著者自身の波瀾万丈の人生が赤裸々に綴られていること。
「結果を出せば評価する――。これがアメリカだ。僕は、マイクロソフト米国本社で、あっという間に出世していった。1979年には極東営業担当の副社長、翌80年には企画担当副社長から新技術担当の副社長になり、1981年にはボードメンバーとなった。当時のボードメンバーは、ビル(・ゲイツ)とポール・アレンと僕の3人だけだった。つまり、この頃、僕はアスキー、アスキー・マイクロソフト、マイクロソフト米国本社の3社でトップマネジメントに加わっていたということだ。アスキーのことは、ほとんど郡司さんや塚本さんにやってもらっていたとはいえ、20歳そこそこの若造にとっては重圧でもあった」。
「僕はこう主張した。『マイクロソフトは半導体開発事業に参入すべきだ』。何度か、会議でも提案したが、僕以外の全員が否定的だった。おそらくビル・ゲイツも含め、他のみんなは、当時の盟友・インテルと競合する半導体事業に参入すべきではないと考えていたのだろう。餅屋は餅屋、マイクロソフトはあくまでソフトがメインで、守備範囲を広げるべきではないという信念もあった」。
「(マイクロソフトとアスキーの)合併の選択肢がなくなると、ビルは、僕を引き抜こうとした。『じゃ、お前ひとりでいいから、マイクロソフトに来い』と言うのだ。ただし、アスキーの株は全部売却すること、そのお金で、マイクロソフト株を買えばいい。間もなく上場するから、たいへんな大金持ちになれる。『いい話だろ?』というわけだ。これに、僕は心が揺れた。もしも、ビルの話に乗ったら、僕はアスキーを捨てることになる。・・・僕はシアトルに飛んで、ビルに『やはり断る』と伝えた。彼は、驚いたような表情を浮かべた。・・・そして、1986年1月2日――。僕はビル・ゲイツの執務室に呼ばれた。部屋に入ると、ビルは冷たくこう言い放った。『マイクロソフトとアスキーの契約はもう更新しない。君もやめてくれ』。・・・僕は、『わかった』とだけ言って即座に部屋を出た。そして、自分のデスクにも、自宅にも立ち寄らず、そのままタクシーを拾ってシアトル空港へ直行して、日本行きの飛行機に乗った。・・・マイクロソフトでの仕事に情熱を燃やした8年間の僕の過去が、そっくり否定されたような気がした。過去が否定されることによって、自分という人間が丸ごと否定された気がした。このとき、30歳になったばかりだった僕にとって、それは耐えがたいほどの苦しみだった。何度も死にたいと思った」。
「僕はずっと、マイクロソフトとの訣別によって傷ついた『自尊心』を回復したいともがいていた。そのためには、ビル・ゲイツと対抗できるだけの仕事をして、彼に匹敵するほどのお金を稼がなければならないと思い込んでいた。ビルに尊敬される男になりたかった。しかし、それが僕のエネルギーになっていたのは事実だが、結局、そのための努力は僕を幸せにはしてはくれなかった。それどころか、会社(アスキー)が潰れる寸前にまで追い詰められて、僕は毎日毎日、生きるか死ぬかの瀬戸際でリストラに励まなければならない境遇に立たされていた」。なお、著者とビル・ゲイツの間に約5年間、絶交状態が続いた後、二人は和解しています。
「自分が創業した会社を(『暴力的な大赤字』という不名誉なことで)追われるというのは、非常に悲しいことだった。30歳でマイクロソフトと訣別したことに続く、45歳での大きな蹉跌だった。世間からは、『負け犬』と思われたに違いない」。
第2は、パソコンの黎明期に自分も立ち会っているような気分を味わえること。
「ビル・ゲイツとの出会いもそうだった。株式会社アスキー出版(のちに株式会社アスキー)を創業した翌年、1978年のことだ。当時、早稲田大学理工学部の3年生だった僕は(もっとも、ほぼ休学状態だったが・・・)、しょっちゅう大学図書館を訪れていた。・・・ある小さな囲み記事に目が止まった。マイクロソフトという会社が、インテルのマイクロプロセッサー『8080』用のBASICインタープリンターを作って売っているという、それだけの記事だった。マイクロソフトという会社は、『聞いたことがある』という程度の存在だった。・・・4ヶ月後――。僕は、カリフォルニアに行き、NCCの会場でビルと初めて顔を合わせた。僕たちは、最初から意気投合した。二人には、共通点が多かったからかもしれない。ビルも僕も22歳。・・・何よりも、二人ともに、コンピュータの未来に対する情熱に溢れていた。・・・1979年に発売される日本初の8ビット・パソコン『PC-8001』に、僕の提案でカスタム化したマイクロソフトBASICが採用されることになった。この『PC-8001』が空前の大ヒット商品となり、日本にも本格的なパソコン時代が到来することになる。そして、アスキーにとっても、マイクロソフトにとっても、非常に大きなビジネスへと育っていくのだ」。
「僕は、マイクロソフトが帝国としての礎を築く、最初のきっかけとなったビッグ・ビジネスの現場に立ち会うことができた。1981年、コンピュータの巨人IBMが、ついに出したパソコン『IBM-PC』に、マイクロソフトのOS『MS-DOS』を採用。大型コンピュータで世界の70%のシェアを誇っていたIBMが参入することで、パソコンは個人ユーズからビジネス・ユーズへと広がり、その市場を劇的に拡大させた。そして、『IBM-PC』 が、パソコンのデファクト・スタンダードになることにより、『MS-DOS』も世界標準としての地位を確立。これが、マイクロソフト帝国の礎石となったと言っていいだろう。・・・『MS-DOS』があったからこそ、『ウィンドウズ』が生まれ、『ウィンドウズ2000』へと繋がっていったのだ」。
第3は、著者の正直な反省の思いが私の心に深く沁みてくること。
「マイクロソフトにいたときに、ビル・ゲイツが大反対した半導体事業への参入など主張せず、ビルの言うことをよく聞いて『いい子』にしておけば、それだけで大金持ちになって。今頃はラクラク。アスキーが好調だったときに、リスクの高い新規事業に積極的な投資などせず、ビルでも買って手堅い商売をしていれば、そこそこの上場企業の社長、会長になって今頃はラクラク・・・。そんな思いが、どうしても頭をよぎる。そして、自分が自分でつくづく情けなくなる。マイクロソフトで喧嘩して、アスキーでも喧嘩して、まさに喧嘩男のちゃぶ台返しの人生。『あ~あ。バカだなぁ・・・』とため息が漏れる」。
「数年前、ビル・ゲイツが僕にこう話したことがある。『頭がシャープなのは、お互いあと10年くらいだから、時間を大切にしなければな』。あの頭脳明晰なビルも、そんなことを言う歳になったのかと、少し驚いたが、たしかにビルの言うとおりだ。僕に残された時間も決して長くはないだろう。今、しっかりと反省して、残された時間を大切に生きたい。それは、僕の切実な願いだ」。
この本に巡り合えた幸運に感謝しています。