榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

森鴎外の『舞姫』のエリスは、本当に売笑婦だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2070)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年12月13日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2070)

メジロ(写真1)、ハシブトガラス(写真2、3)、カルガモ(写真4~7)、コサギ(写真8、9)をカメラに収めました。イロハモミジ(写真10~12)が紅葉、オオモミジ(写真13)が黄葉しています。因みに、本日の歩数は12,287でした。

閑話休題、森鴎外の『舞姫』のエリスの正体探しは、六草いちかの『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(河出文庫)、『それからのエリス――いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(講談社)によって一件落着、と私は考えています。

ところが、『鴎外留学始末』(中井義幸著、岩波書店)の「ベルリンの恋」に、意外なことが書かれているではありませんか。

「(森)林太郎(鴎外)の(ドイツ留学からの)帰国後、ドイツ人女性が後を追って日本へ来たという噂は当時からあったが、帰国後1年4ヵ月を経た明治23年1月、彼は、世間の噂が真実であることをみずから天下に告げるかのごとく、告白体小説『舞姫』を『国民之友』誌上に発表して、主人公太田豊太郎と踊子エリスのベルリンの同棲生活を描いてみせた。人々は豊太郎すなわち林太郎としてこれを読み、森鴎外の名は華やかな異国女性との恋物語のヒーローとしてまず世に知られた」。

「後年、(鴎外の妹)喜美子が、『エリス』という名のドイツ婦人が実際に日本へ来たことを語り、多くの研究家がこれを追うことになって、当時の乗船者名簿が調べられ、彼女の名がエリーゼ・ヴィーゲルトで、明治21年9月12日に横浜に入港したドイツ汽船ゲネラル・ヴェルダー号で日本に来て、築地精養軒に泊まり、森家側の説得の結果、10月17日に同じ船でドイツへ帰って行ったということが明らかになった」。

「しかし、『エリス』ことエリーゼ・ヴィーゲルトは一体何者だったのか。溯って林太郎のベルリン生活にその姿を追おうとすると材料は乏しく、彼の『ウンター・デン・リンデンの恋』の実体は現在に至るまで謎に包まれたままである」。

「林太郎にとって『エリス』は、ベルリン生活の記憶と分かちがたく結びついていたはずで、ドイツ留学の形見として書き残された『独逸日記』に、その姿が記し止められていないはずはなかろう。そう信じてもう一度見てゆくと、ただ1ヵ所だが、一瞬女性の影がよぎる場面がある。ベルリンへ来て1ヵ月の明治20年5月、日本人のたまり場になっていたカフェ・クレップスに行った時のことである。<二十八日(土曜)。午後加治とクレップス氏珈琲店に至る。美人多し。云ふ売笑婦なりと。一少女ありて魯人ツルゲネエフの説部を識る。奇とす可し>。・・・さらにその10年後に書かれた『ヰタ・セクスアリス』にも『カフェ・クレップスの女』は登場する。・・・27歳の作『舞姫』、37歳の作『独逸日記』、46歳の作『ヰタ・セクスアリス』と、林太郎は、三たびくり返し、同じ一人の女性のことを語っている。ベルリンの林太郎に恋の相手がいたとすれば、その忘れ難い一人の女性、『カフェ・クレップスの女』以外にはなかろう。彼女こそ『エリス』なのだ」。

そのカフェ・クレップスの少女の身の上が、『独逸日記』に「云ふ売笑婦なりと」と書かれている点が、私には、どうしても引っ掛かるのです。

『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の単行本は、2011年3月8日に講談社から出版されています。その結論は、「エリスは、1866年9月15日生まれのエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト」であり、鴎外に出会った時は、20~21歳、父親フリードリッヒはベルリンの銀行員であったが、エリーゼが14歳の頃、他界したため、エリーゼと妹・アンナは裁縫で生計を立てる母・マリーの女手一つで育てられたというものです。さらに、ドイツに帰国後のエリーゼが帽子製作会社の意匠部に勤めたことも突き止めています。

これに対し、本書『鴎外留学始末』は2010年12月10日に出版されているので、著者の中井義幸は『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』を読んでいないことが分かります。中井は2011年1月31日に亡くなっているので、『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』に対する見解を聞けないのが残念です。