榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

森鴎外のドイツの恋人、脚気原因論争、そして遺言について・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2588)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年5月19日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2588)

私には古巣が2つあります。三共(現・第一三共)とEPSです。EPSでの会合に出席するため、東京・新宿の筑土八幡神社(写真1~7)の隣に移転したEPS(写真8~10)を訪れました。我が家にやって来たツマグロヒョウモンの雌(写真11、12)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,392でした。

閑話休題、森鴎外は私の大好きな作家だが、『森鴎外――よみがえる天才(8)』(海堂尊著、ちくまプリマー新書)のおかげで、鴎外(林太郎)に対する理解を深めることができました。

●『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼについて
「5歳年下のエリーゼ(・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト)と林太郎がいつ頃、どのようにして知り合ったのかは、今日でも謎に包まれている」。

「(林太郎は明治22年)7月29日、仏汽船『アバ号』に乗船し、ヨーロッパを離れた。林太郎はエリーゼの船旅のスケジュールを把握していた。彼と(上司の)石黒の荷物の別送便に使った船にエリーゼを乗せたからだ。途中の寄港地、スリランカのコロンボでは、後から来るエリーゼに小説を言付けている。そこには『この本はつまらないので読む価値はない』というコメントがつけられていた。・・・間もなく日本に到着するという晩、林太郎は、エリーゼが自分を追って日本に来ると石黒に告げた。すると石黒の顔が険しくなった。石黒は『赤松中将のご令嬢との縁談はどうするつもりだ』と詰問した」。

「早々にサロンを辞去した林太郎は横浜港に向かった。前日、林太郎は横浜に1泊していた。エリーゼの乗った客船が到着したからだ。だが大嵐で上陸が叶わず船内泊になり、翌日林太郎は陸軍サロンでの講演予定だったので、東京へ戻らなければならなかった。やむなく林太郎は、弟の篤次郎に対応を頼んだのだった。小雨の中、エリーゼは埠頭に降り立った。ひとりぼっちの船旅、日本に着いたと思ったら嵐の中の船中泊。さぞ心細かっただろうと思うと、林太郎の胸は一杯になった。エリーゼは築地の精養軒に宿泊したが、入れ替わり立ち替わり鴎外の親族や友人が現れた。妹の夫、小金井良精はドイツ語が堪能だったので話し相手を務めた。エリーゼは、自分が歓迎されていないと感じ、次第に元気を失っていった。森家のおんなたちは一斉に反発した。特に母峰子の鴎外への執着は凄まじく、妹・喜美子の夫の小金井良精に泣きついた。彼は精養軒に日参し林太郎を翻意させようとしたが謝絶され、賀古鶴所に援軍を頼んだ。賀古は、『ここはひとまず引いて、エリーゼをドイツに帰せ』と提案した。賀古は2カ月後、山県有朋の通訳として1年間欧州に行くので、彼がドイツにいる間に全てを始末してドイツに来ればいい、という。他に妙案もなく林太郎はその提案に同意した。賀古と話し、エリーゼも同意した。10月17日、来日1カ月後に来た時と同じ客船で帰国した」。

「林太郎は結局、17歳の赤松登志子と婚約した。すべては林太郎の優柔不断のせいだ。彼は賀古に託した手紙で、ドイツに行けなくなったと認めた。それはエリーゼとの結婚が駄目になったことを意味した。・・・林太郎とエリーゼの恋は終わったが、文通は終生続いたという」。母親の猛反対に遭ってエリーゼを捨てることになってしまったが、エリーゼと結婚したいという林太郎の気持ちは本物だったのでしょう。痛恨の極みです。

●脚気原因論争について
「軍医としても日清・日露の2つの戦争に従軍しています、ただしこの時、陸軍の兵食を、脚気の原因のビタミンB1不足につながる米食に拘り続け、多くの兵を損ないました。このことは鴎外の消せない疵でしょう」。脚気病原菌説を支持した鴎外だが、医師として冷静・公平に判断すれば、脚気米因説に宗旨替えして、米食を麦食に変更することは可能だったはずです。鴎外のためにも、脚気で亡くなった多くの兵士のためにも、悔やまれてなりません。

●遺言について
「遺言で『石見人森林太郎として 死せんと欲す』とし、『宮内省陸軍皆 縁故あれども生死の別るる瞬間 あらゆる外形的取扱ひを辞す』とし、『墓は森林太郎墓の 外一字もほる可らす 宮内省陸軍の栄誉は絶対に取りやめを請ふ』と記しています。これを読むと、鴎外は世俗の名誉に興味のない、悟った人のように思えます。・・・しかし遺言をそのまま受け取るとまた、鴎外の思惑に引っ掛かるでしょう。鴎外は、自分がどう見られているかを気にし、常に本音を隠蔽することに気を遣っていました。・・・鴎外本人は、8年半も軍医総監を努めながら貴族院議員になれず、男爵も受爵できませんでした。なので没後も爵位をもらえないだろうと予想していたため、先手を打って『そんなものはこっちから願い下げだ』と啖呵を切った可能性もあるのです」。この鋭い指摘には、目から鱗が落ちました。

「見方を変えれば鴎外の作品群は、彼の壮大な人生を描き出した、私小説の大河小説であるとも言うこともできるでしょう。自己の感情を隠匿し、二重の仮面を被り続けた鴎外の本音が、創作物の中にあっさり見つかることも多々あります」。この指摘にも驚かされました。