榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

史実における呉は、三国志の脇役、引き立て役ではなかった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2074)】

【読書クラブ 本好きですか? 2020年12月17日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2074)

キリキリという鳴き声で、頭上のカワラヒワ(写真1~4)の存在に気づきました。ヒヨドリ(写真5)は、日本では見慣れた野鳥だが、外国のバード・ウォッチャーには人気があります。ヨシガモ(写真6~13)の雄、雌が群れています。

閑話休題、『図説 呉から明かされたもう一つの三国志』(渡邉義浩監修、青春新書インテリジェンス)は、三国志の中で不当に脇役扱いされてきた呉の復権を目指す意欲的な試みです。

解説が簡にして要を得ていること、記載が呉、魏、蜀のいずれにも公平であること、添えられている図が理解を助けてくれること――が、本書の魅力となっています。

「『三国志演義』において孫呉は、道化の役回りを強いられている。主役である諸葛亮の神算鬼謀、敵役でありながら勝者でもある曹操の颯爽とした活躍をもりたてる舞台廻しや引き立てが孫呉の役所(やくどころ)である。・・・南宋の朱子は、北方民族に押し込まれている南宋の現状を背景に、漢を受け継ぐ正統な国家を蜀漢であると主張した。『三国志演義』は、朱子学が官学であった明清時代に通行した小説であるため、当然のように蜀漢が主役とされた。こうして孫呉の人々は道化とされ、蜀漢の引き立て役として不遇な扱いを受け続けているのである」。

「しかし、史実としての孫呉は、けっして単なる引き立て役ではない。目的としての天下三分を唱え、劉備との同盟を実現して赤壁の戦いで曹操を破り、その後に荊州を貸して天下三分を実現したのは、(呉の)魯粛の戦略と外交努力による。赤壁の戦いもまた、主力を率いて曹操を破った者は、(呉の)周瑜であった。荊州を奪還した後の劉備の侵攻は、夷陵の戦いで(呉の)陸遜が撃破している。曹魏・蜀漢の大軍を退けた背景に、江南開発の進展があることも見逃してはならない。折からの地球の寒冷化に伴い、農業の中心は中原(ちゅうげん)から江南へと移行しつつあった」。

呉の歴史を時系列で辿ってみましょう。
●172年=孫堅の登場――わずか17歳、海賊討伐で一躍名を上げる。
●191年=孫堅の最期――黄祖戦で伏兵により討ち取られる。「大きな戦績を挙げるも、出世はなし」。享年37。
●194年=雌伏の時代――(孫堅の跡を継いだ長男の)孫策が強いられた流転の日々。
●199年=西塞山の戦い――江東・江南を制し「小覇王」と呼ばれる。「政略結婚で孫策を手なづけようとした曹操」。
●200年=孫策の最期――許貢の食客が放った矢で不覚にも命を落とす。享年26。
●200年=孫権、立つ――父と兄の遺志を継いだ新たな呉王の誕生。孫堅の跡を19歳の弟・孫権が継ぐ。
●208年=赤壁の戦い――(呉の)黄蓋の奇策! 曹操を破った水上の火炎戦法。「三国志最大の水上戦」。
●210年=(呉の)周瑜の死――天下二分を目指すなかで迎えた無念の死。
●213年=濡須口の戦い――「孫権のような息子が欲しい」とつぶやいた曹操。
「曹操は、1か月余りの膠着状態にもかかわらず孫権の軍の軍船や隊列などが少しも乱れていないことを見ると、ため息をついて言った。『息子を持つならば、孫権のような息子がほしい』、と」。
●219年=荊州争奪戦――荊州返還を拒み続ける劉備を裏切り、関羽を討つ。「あらかじめ関羽の策を見破っていた孫権は、潘璋に命じて関羽の退路を断ち、臨沮にて関羽・関平父子を斬った。討ち取った関羽の首は曹操のもとに送られ、曹操は諸侯の礼をもってこれを葬った」。
●220年=後漢王朝の滅亡――民を思い、やむなく魏の文帝・曹丕に臣従を誓う。「建安25(220)年1月、魏王・曹操が66歳で没すると、次男の曹丕が跡を継ぎ、魏王・丞相となった。そして同年秋には、後漢の献帝から禅譲の形式によって皇位を譲り受け、魏の初代皇帝(文帝)として即位した」。
●222年=夷陵の戦い――(呉の)陸遜の活躍で蜀軍は壊滅、白帝城にて(蜀皇帝)劉備死す。
●229年=孫権の即位――3皇帝による三国鼎立と天下二分の盟約。「石亭の戦いが起こった段階で、魏の曹叡、蜀の劉禅と当時の中国には2人の皇帝が存在していた。それまで帝位に即かず、形式上魏の臣下の地位にあった孫権は、三国の拮抗状態のなか、黄武8(229)年4月、臣下からの申し入れを受け、武昌の南の郊外で、ついに皇帝を名乗った。48歳にして呉の初代皇帝となったのである」。
●251年=孫権の死――初代皇帝の最期と後事を託された将軍・諸葛恪。「陳寿は『呉書』<呉主伝>の末尾に、孫権の評を載せる。そこには、孫権を呉の国の礎を築き上げ、傑出した人物としながらも、猜疑心が深く、容赦なく殺戮を行なう一面も持ち合わせていたため、晩年になって讒言に迷わされ、国内に混乱をもたらした。結果。後継者を失い、やがて国が衰微する遠因をつくったと結んでいる」。享年70。