アレクサンドロス大王は、なぜインドにまで及ぶ東方遠征をしたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2076)】
上野動物園のパンダ・シャンシャンの中国への返還時期が、年内から来年5月に延期となったようですね。
閑話休題、かねがね抱いていた3つの疑問―― ●アレクサンドロス大王の実像は? ●彼は、なぜインドにまで及ぶ東方遠征をしたのか? ●彼の事績の歴史的意義は?――が、『アレクサンドロス大王――よみがえる天才』(澤田典子著、ちくまプリマー新書)のおかげで氷解しました。
●実像――。
「わずか10年で前人未到の大征服を成し遂げ、雄図半ばで忽然と世を去ったアレクサンドロス(三世。在位・前336~前323年)の生涯は、無数の神話や伝説に彩られています。当時の知られうる限りの世界を征服した彼の(32歳という)早すぎる死は、人々の想像力を限りなく刺激しました。アレクサンドロスの短くも華々しい生涯に魅せられた後世の人々は、アレクサンドロスにまつわる多様な伝説を紡ぎ、人々の追憶と想像のなかで、彼のイメージはとめどもなく増幅していきました」。
「アレクサンドロスは、数のうえでまさるペルシアの軍勢に対し、その水際立った指揮と巧みな用兵でめざましい勝利を収めました。常に、戦場の地形の不利な条件を見事に克服して臨機応変な戦術をとり、先手を打って迅速果敢に攻め込みました。軍の補給という死活問題を踏まえて進攻の時期とルートを慎重に選び抜き、正面対決の激突戦、何カ月にも及ぶ攻囲戦、山岳地帯でのゲリラ戦など、多種多様な戦争にも柔軟に対応し、確実に勝利をもぎとりました。・・・アレクサンドロスを否定的に評価する歴史家たちも、その軍事指揮官としての卓越した手腕だけは認めています。・・・その卓抜な軍事的手腕は、毀誉褒貶のうずまくアレクサンドロスについての、唯一のコンセンサスと言えるかもしれません。しかし、当然のことながら、アレクサンドロスはそうした軍事的成功だけでペルシア帝国を滅ぼすに至ったわけではありません。アレクサンドロスがペルシアを征服するにあたって重要な役割を果たしたのが、彼の推進した(ペルシア人を積極的に総督や高官に登用する)東方協調路線です」。
興味深いのは。アリストテレスとの関係です。
「前343年、アレクサンドロスが13歳になると、(父)フィリポスは、当時小アジアに滞在していた哲学者アリストテレスを息子の教師に迎えました。・・・3年間アリストテレスのもとで勉学に励みました。『万学の祖』と言われるアリストテレスの教えは、哲学、政治学、文学、弁論術から幾何学や医学に至るまで、実に広い範囲に及んだようです。10代前半のアレクサンドロスがこの碩学による薫陶からいかなる影響を受けたのかについては、様々に論じられてきましたが、その後の彼の政策や思想にはアリストテレスの訓育のさしたる影響は見られない、という議論が主流になっています。・・・ただし、アレクサンドロスの終生にわたる学問や文化への愛好、とりわけ自然科学への強い関心は、まぎれもなくアリストテレスの感化によるものだったようです」。
●東方遠征――。
「歴史家たちの議論は様々ですが、不滅の名誉を求め、自らの無限の可能性を追求しようとするポトス(衝動・願望)が彼を内面から突き動かしていた、という解釈が主流になっています。・・・空前の大征服の原動力は、アレクサンドロスのこうしたつかみどころのない非合理な情念のほとばしりとしてしか、説明できないのかもしれません。・・・(ギリシア北辺の一小王国にすぎなかったマケドニアを強大な軍事国家に育てあげた)父を凌ぎ、父の巨大な影から逃れようとするアレクサンドロスのトラウマ的な衝動こそが、彼を果てしない遠征行に駆り立てる原動力になったのでしょう。父フィリポスの存在なくして、アレクサンドロスの前人未到の大征服は、決してありえなかったのです」。
●歴史的意義――。
「アレクサンドロスの空前の『世界征服』は、結果として、ギリシア文化を東方に広げ、ギリシア人の世界を西アジアや中央アジアにまで一挙に拡大する契機となりました。彼自身の未完の帝国はその早すぎる死ゆえにほどなく瓦解しましたが、彼の東方遠征によって、次のヘレニズム時代における文化の発展の『場』が確実に開かれました。これはまさしく、アレクサンドロスの歴史的意義と言えるでしょう。ただし、アレクサンドロスは文化を広めるために遠征したわけではありません。文化の拡大は、遠征の目的ではなく、あくまでも、遠征の意図せざる結果にすぎなかったのです」。
読み応えのある一冊です。