榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

シェイクスピア、オースティン、ミッチェルって、実は、こういう人だったんだ・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2113)】

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カケス(写真1~5)、ジョウビタキの雄(写真6~8)に出会いました。シジュウカラの群れにヤマガラが混じっています(写真9)。カワセミが捕らえた小魚を銜えています(写真10)。マガモたちが空を飛び回っています(写真11)。

閑話休題、『若い読者のための文学史』(ジョン・サザーランド著、河合祥一郎訳、すばる舎)で、とりわけ興味深いのは、シェイクスピア、オースティン、ミッチェルについて論じた章です。

●シェイクスピア――。
「(シェイクスピアは)18歳のとき、8歳年上で妊娠数か月のアン・ハサウェイという近隣の女性と結婚した。この結婚で娘がふたりと息子がひとり生まれる。息子ハムネットは、幼くして死んだ。シェイクスピアの最も有名で陰鬱な劇の悲劇的英雄の名前に、息子の名がとどめられている。シェイクスピアの結婚生活は不幸なものだったという説がある。マクベス夫人のような、気難しく、冷淡で、支配的な女性が作品中多く描かれ、子供も当時としては少なかった(3人だ)というのがその理由だ。しかし、実際のところ、シェイクスピアの私的生活については何もわかっていない。さらに不満に感じられるのは、作家になりはじめたはずの1585年から1592年の時期にシェイクスピアが何をしていたのか、何ひとつわかっていないことだ。このいわゆる『失われた年月』について、故郷を離れて田舎教師になったとか、イングランド北部のカトリックの貴族の邸で家庭教師となって、その危険な信条を吸収したとか諸説ある。旅役者の一座に入って、演劇的技能を身につけ、それがかなり初期の戯曲からはっきりと表れているとする説もある。ふたたびその姿が見えてくる1590年代初頭には、ロンドン演劇界の新星として戯曲を書いたり演じたりしていた。その驚くべき才能にふさわしい活躍の場を得たのだ」。

「1594年までにシェイクスピアはロンドンの演劇界のトップにのぼりつめる。役者であり、劇場株主であり、そして何よりも戯曲に何ができるかという発想をすっかり変えた注目の劇作家だ。それから長年ロンドンで暮らすようになり(一方、家族は遠いストラットフォードにいて、遠ざけられていた)、時折、商売に手を出して、自己資金を大きく増やしていた。・・・1610年、キャリアの頂点にあった(まだ40代の)シェイクスピアは、今や裕福になってロンドンを引き払い、新たに入手した家紋を誇らしげに示しながら、生まれ故郷のストラットフォード・アポン・エイヴォンに紳士階級となって引退した。残念ながら長生きはしなかった。1616年、おそらくはチフスが原因で亡くなった」。

●オースティン――。
「オースティンの小説が教えてくれるのは、きちんと生きるためには、まず生きてみなければならないということである。人生は、人生のための教育なのだ。ここでもオースティンは、批評家F・R・リーヴィスが英語の小説の『偉大なる伝統』と呼んだものの草分けとして考えられている。ジョージ・エリオット、ジョゼフ・コンラッド、チャールズ・ディケンズ、ヘンリー・ジェイムズ、D・H・ロレンスと続いていく伝統のはじまりに位置しているのだ。どの作家も、ハンプシャーの牧師館で執筆していた慎ましい淑女から出発している。彼女は、自分で世界を経験した以上に世界のことがわかっていたのである。オースティンの小説によって、文学作品は偉大であるために大きなものでなくてもよいということが、すごくよくわかる。2インチの象牙に何が含まれ得るか。天才の手にかかれば、書くに値することはすべて含まれ得るのである」。

●ミッチェル――。
「かなり人気のある小説ではあるが、ミッチェルの小説を読む人の100倍、『風とともに去りぬ』を映画でしか知らない人がいるにちがいない。この映画は原作に忠実なのだろうか? そうではない。MGMはミッチェルの筋の主たる概要は採ったが、クー・クラックス・クランに賛同するような言及をやわらげ、白人女性を襲おうとした奴隷でない黒人男性をレッド・バトラーが殺す場面を削除した。きわめて鋭い小説の『鋭さ』を丸めてしまったのだ。このすばらしい小説を尊敬する者にとって。これは大問題である」。

これまで知らなかったことを知る喜びを味わわせてくれる一冊です。